髙柳恵里、井戸川射子、髙柳克弘
2025年10月4日 – 11月2日
Kanda & Oliveira
https://www.kandaoliveira.com/ja/exhibitions/21-eri-takayanagi-iko-idogawa-katsuhiro-takayanagi



はたして即物的な〈に即応する〉即時性なんてあるのだろうか?
こう見ようとすることは、そう見ようとする不自由さでしかない。
その過程は仮定だとしても、単なる思考の過程、本来的な“見ることを見ようすること”にいたらない。
ある海外のアーティストが、“見ることは、見ることを忘れることだ”と書いていた。
例えば、“ただ見ているだけ”っていう身振りも事後的な事象だろう…。
その状況の抽出は、意識をあくまで先行する意識にとどめ「意識」を「意識すること」でしかない。
そもそも見ること自体、”観念”から切り離せない。
情報〈言語〉化 = 資本〈物質〉化に抗する“間隙”を顕在化させる身振りは、意識下の所作を無意識化へと変容させるしかない…。
だからこそ恣意的の、恣意性を排除することなんて不可能なのではないか、と。
「行為化」の留保は、行為の未詳、思惟の保留あるいは休止なのかもしれない。