mitsuhiro yamagiwa

2023-12-16

遊びのルール

テーマ:notebook

子供の遊びと子供たちが肉体的にまた感情的に未発達なために経験する欲求不満との関係はどうだろうか?

 幼児はいままでしたことのないことをおこなうことで自分に起こる危害や喜びの可能性を知る術をもたない。

 言語の習得が未知の経験にともなう危険を減少させるうえで決定的な段階となる。

 実際は、遊びのなかでの危険は不安を、また子どもたちがいつも負けるゲームでは多くの欲求不満を生みだす。ところが、結果として、子供たちは遊びをやめない、「現実に呼び戻された」(フロイトのことば)かのようには。欲求不満は彼らをさらにいっそう遊びに夢中にさせる。

 子供たちは状況そのものに注意を集中させることで欲求不満を減少させようとし、ゲームのルールを独立した現実として扱う。

 欲求不満は自分との距離を補強し、またライオネル・フェスティンガーのいう「状況への愛着」を強めるのである。

 遊びのなかで喜びと苦痛の目先の打算から遠く離れれはわ離れるほど、これらの状況をコントロールする行為はそれだけより異様な凝ったものになることができる。

 遊びのルールは行動を客観化する、それにある距離をおき、それを質的に変える最初の機会なのである。

 遊びによって子供たちは表現は繰り返しが可能だという考えに慣れるのである。

 ルールは生みだされるもので、絶対的に与えられたものではないから、子供たちはどのようにして生みだされたかを説明することでお互いに親しくなるのである。

 表現についてのディドロの理論によれば、二つの主張がなされている。第一に、美的表現は繰り返しが可能なものであり、第二に、個人は表現を訂正したり、改良したりして手をくわえるのに必要な距離だけは表現から離れているものである。この美的な作業のはじまりは子供時代の遊びのなかで起こる自分との距離の学習にある。自分との距離のある遊びを通して、子供はルールが何度でも細工ができること、ルールは不変の真理ではなくしきたりで、自分がコントロールできることを学ぶ。感情の提示の発端は両親から普通学ぶものよりも、むしろゲームのなかにある。両親はルールへの服従を教え、遊びは、ルールそのものに順応性があり、ルールが作られ、あるいは変えられるときに表現が生じることを教える。当面の満足、当面の保持、当面の支配は一時停止させられるのである。

 自分との距離は表現に関してある態度を創りだす。同じ程度にそれは他の人々についてある態度を創りだす。

 つまり、遊びのなかの子供はコントロールされた環境を作るのである。しかし、この環境はルールを守るという克己によってのみ存続する。

 遊びでは、子供はこのように一般化された欲求不満、遅延の欲求不満で代え、このことが遊びを構築して、遊びに内的な緊張を与え、「ドラマ」を与える。この緊張自体が遊ぶことへの子供の興味を支えるのである。

 遊びの感覚の喪失は、社交的にして、同時に表現の質に関心をもつ、子供次代の能力の喪失、あるいはもっと正確には抑圧なのである。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳