ナルシシズムはこのエネルギーを弱める
ヒステリー障害は、要するに、公的生活と私的生活の区別と安定の危機ーーこのことは強すぎることはないーーの徴候なのである。
断絶や空虚感といった人格障害を理解する一つの方法として、精神分析のあるグループは、初期の理論では従属的な役割を果たしていたナルシシズムの観念を拡張しはじめた。
人格障害としとは、ナルシシズムは強い自己愛のまさに反対のものである。自己陶酔は満足を生みださず、自己の損傷を生みだす。自他の境界線を消すことは、何も新しいこと、「他の」ことは自己に決して入り込まないことを意味している。
つまり、人は自己のなかで溺れてしまうーーそれはエントロピーの状態である。
「一般にはこうしたナルシシズム的な『愛』の客体は、主体の期待と要求で圧迫され、奴隷化されるように感じる結果にいたる」。この同じ崇高な自己と客体との関係のまた別の一面は、精神治療における「ミラー」転移、もっと一般的には、〈他者〉が自己の鏡になるような現実観となる。
これは意味の境界がその鏡が映せるところまでしか広がっていない自己であり、鏡の反射が弱まって、非個人的な関係がはじまるにつれて、意味はとだえる。
「私は本当は何を感じているのか」は、この人格像においては、「私は何をしているのか」という問いから徐々に分離し、それを無にする問いになる。
共通の活動の追求よりもむしろ衝動の共有が前世紀の終わりにコミュニティの特異な意味を定義づけはじめ、今ではそれはコミュニティの局所化に結びついているーーそこで人は自己の鏡が映す距離の範囲にかぎってわかちあうのである。
ナルシシズムはいま、公的なものへの信念を奪われ、現実の意味を測るものとしては親密な感情に支配されている文化によって社会関係に動員されている。
現実をナルシシズムの目で見た結果は、大人の表現の力が減少したことである。大人たちは現実と戯れることができない。
現代の社会生活では、大人が社会の規範に従って行動するためにはナルシシスト的な行動をしなければならないのだ。なぜなら、その現実の構造は、その構造の内で働き、行動する人々が社会状況を自己の鏡として扱い、非個人的な意味をもつ形態として調べることから逸らされている程度に応じてしか、秩序と安定と報酬は現れないようになっているからである。
人のすることはその人がどのような人であるかを反映しているように思われるので、自己から距離のある行為はその人にとって価値を信じることが難しいものになる。ナルシシズムが動員される第二の方法は、自己の生まれつきの特性への注目が、達成された一定の行為よりも、むしろ行為の潜在能力に集中する場合に起こる。ということは、人が現在していること、あるいはなしたことよりも、むしろ人の「将来性」、その人ができるであろうことについて判断がなされることである。
ナルシシズムの動員と新しい階級の出現
組織によるナルシシズムの動員は、表現豊かな遊びの要素、すなわち、彼らの行為を支配している非個人的な規則と戯れ、作りかえる要素を無力にすることに成功している。
仕事をしている自分は「アイ(I)」と「ミー(me)」に分けられる。能動的な自分である「アイ」は、制度が評価する自分ではなく、労働者の動機、労働者の感情、労働者の衝動をもつ自分である。逆説的なことに、ものごとをなし遂げ、報いられる自分は、受動的なことばで、「ミー」に起こった出来事の関連で述べられる。
「アイ」がものごとをなし遂げることはない。
仕事そのものが人の能力の行使の結果のように思われるときに、人が矛盾に陥ることである。すなわち、一方において地位は個性の所産であるが、他方において、人は自分の個性が官僚機構の働きの受動的な受取人であるかのように自分のそこでの経験を扱うことで、働く自分自身を守るのである。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳