
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/kenjiro
<展覧会メモ>
「かたがみのかたち」同様に「たてもののきもち」(building through construction)も、無機的な構成物から「建物」と呼ばれうる固有の場所を生成させる意味が込められていた。
こづくえ 1979
その活動の根底には、私たちの「認識」と「世界」を結び直す力としての「造形」があります。
「世界は崩壊しているのではない。動揺しているのは私たちの認識である」
岡崎にとっての「造形」とは、私たちが世界を捉える、その認識の枠組み自体を作り変える力です。すなわち認識を作り変えることで世界の可塑性を解放し、世界との具体的なかかわりを通して認識の可塑性を取り戻すことです。「造形」とは、この二つの可塑性を実践的に繋ぎなおすことだと彼は言います。
>> 造形 = 認識の可塑性
それらの可塑性を取り戻すという過程は、芸術実践としての造形と深く結びついていました。
主観と客観の分別もない感覚の中で
世界は終わりなく何度も再生するという確信を示してきた作家が拓く、新たな地平
画面比率に対応した厳密な字数・比率のパラグラフ
(いま現れ = 語られる場面は異なっていても、同じ単語が別の形を伴って現れる。そのつながりが空間と時間を生み出す)。
いま、ここではない、どこか外から持ち込まれたものとして知覚される「徴候」こそが、作品を固有なものとして生成させる契機となる。
「ランダム/アクシデント/メモリー」
「もう一つの生を生きる」マティス論
「認識の階梯」ヒルマ・アフ・クリント論
マティスはここで語った「徴候」を、「記号」と呼んでいる。
「AはXである」と一方のXが未確定なとき、私たちの感受性は広がる。
絵画とか、絵画とタイトル、タイトルとタイトルの間、さらにその関係と関係にも張り巡らされている。
こうした気がかりとして発見される細部は外部への手がかりとなり、どこか他所、過去や未来へのつながりを示す徴となっている。
>> 付記されるタイトル、その言語間の造型を大前提に、詰まるところ言語は後付けでしかない…。そこが気になってしまう。
そこらじゅうで時間と空間は分断され並行しない。感覚なのか、メッセージなのか?
どこまでも“引きのない”平坦な思考=形態に向き合うしかない。

くしゃみ(心を口の中に入れておく) 2018
もとの場所への回帰(空の袋) 2005
>> すべてのタイトルを読む人はいない。
読ませるという高さでもない。
汎知学(panasophy)
「かく」という行為は「きく」「さわる」「かぐ」などと同じように、ただ一枚の「絵」を描くのではなく、その感覚、その行為を通して、世界のすべてを編み上げている、網目を掴み、自分もその網の一部となって織り込むことなのだ。
T.T.T. Bot ドローイング
主体が可塑的であること
3:2と2:3
>> 人工大理石の彫刻は天井高のある展示室で奥行きが感じられない。
タブローのコンポジションにしろ圧倒的なのは過剰な点数であって、動線も空間も時間も死滅させられている…。
そこも意図的なのだろうか?
象(像/彫刻)

>> いずれにしろパフォーマティヴな楽観的な造形概念へと行き着くのか。
彫刻にとって人体という主題が重要なのは、姿態のわずかな変化からさえ、外から加えられた力、感覚情報などの刺激に、感情、精神が応答するさまざまな様態を読み取ることができるからだった。どんな身体の断片であれ、この物理的力、精神的力の交渉、葛藤が刻みこまれている。それを人は敏感に察知することができる。だが象はそもそもその全体がつかめない。大地が移動しているようなものである。
まさに象の姿に感知されるのは森羅万象。彫刻のモチーフとして突出している。
粘土が造形(プラスチックアート)の本質的かつ基礎となる素材だといえるのは、粒子にまで還元された粘土の粉末が、水との配合によるエマルジョンとして、多様な物質的組成を作り出せる能力を有することによる。
粘土による造形の本質は、形態の模倣ではなく、対象となる物質の組成それ自体の再現・転移にある。造形とは、物質組成の模倣である。
可塑性とは、この土の粒子の自在な結合・組成に基づいている。粒子に還元された土と水のエマルジョンは、練られ、乾燥され、凍らされ、割られ、裂かれ、押し延ばされ、捻られ、焼かれ、溶かされるなど、さまざまな外力が畳み込まれ、積層され、合成されることで造形が成立する。複製可能なものは、岩石、結晶、人体、動物、植物など、あらゆる事物の組成プロセスそのものといえる。つまり、こうした造形に読み取れるのは、さまざまな事物の物質的組成の有り様、すなわち無数の異なる力のベクトルをもつ時間や空間の合成、圧縮のされ方なのである。
岡崎乾二郎
>> 言説実践の分析は、我々が我々自身から身を引き離すことを可能にすべきものであるということ。
『知の考古学』ミシェル・フーコー/著、槙改康之/訳
https://www.youtube.com/watch?v=H80Tusy6SCU
