mitsuhiro yamagiwa

第3章 インダストリアルな時間的対象の時代における意識

◇ 技術と記憶技術

 動作は物の中に保存され、だからそうした物は、読み取りやすさの違いはあれ、すべて人間の運動機能を記録する媒体であり、また運動機能を通じて人間の行動、すなわち人間の精神を記録する媒体となるのです。

 農業がもたらすのはつまりは備蓄であり、これを帳簿で管理する必要が出てきますーーこうして最初の勘定の体系が、つまりさまざまな媒体への書き込みとその書き込みに基づく計算の体系が現れます。

◇ アルファベットーーオルトテティックな記憶技術

 今日もわれわれがーーコンピュータのキーボード上でも ― 用いているアルファベット文字は古代ギリシア人とともに出現し、アルファベット化が正確な意味でのギリシア都市国家を構成します。ギリシア都市国家という共同体は、生活ルールの批判的な認識の内に生きる共同体です。こうした生活ルールは、認識され、言表で表わされ、批判可能である限りにおいて、法[正義、公平]と呼ばれます。都市国家がそのような生活のルールの批判的な認識を持ち得るのは、都市国家がそのルールを書かれたテクストという形で外在化・客体化し、文字によって離散化される発話の流れの中から、そのルールを識別したからに他なりません。

 そもそもわれわれは皆自分の人生を、時が過ぎるにつれて別様に解釈します。われわれは、世界とわれわれ自身も見つめる視点を幸いにも変えられます。

 議論になるのは言述の[読解レベルでの]意味 sens についてです。

*二つの「意味」significationとsensはしばしば同意語として用いられますが、ここでは、significationは略語等の「意味」(読み方)、sensは言述が個々の文脈・状況の中で持つ「意味」(内容)の意で使い分けられている。

『シンボルとディアボル』

 ヒュポムネーシス的なテクスト性はその構造からして、多様な解釈に開かれているからです。
これが思想のディア – クロニック[隔 – 時]性なのです。

◇ 記録技術がもたらすもの――時間の物質的把持

 私が今日プラトンと対話できるのは(そしてプラトンが、自らの思索における時の隔たりを通して自分自身と対話できるのは)、彼が自分の考えを書き残したからであり、この考えが書き残されているがゆえに私がそれを再働化できるから、あるいはフッサールが言うように、新たな直観の形式のもとで再活性化できるからです。

 記憶技術が可能にするのは、時間の物質的な把持であり、各々の記憶技術に固有の特徴に応じて再活性化できる形式での、過去の保存です。そして集団的、個別的意識が機能するための条件の研究を根底において条件付けるのは、意識が自らの過去にアクセスすることを可能ならしめる研究である、と私は思います。

 私の過去は私の過去ばかりではなく、知識の形で私に伝えられた過去も含みます。先ほど人間の記憶の三つの形と呼んだものの後成的系統発生の層、とりわ記憶技術の層が、この知識の伝達を可能にします。
 人間が知る者であるのは人間が欲望するから、つまりファンタスムを抱き想像するからです。人間が知るための条件は、知に夢中になること、たとえば幾何学上の図形の顕現にまさしく取り憑かれることに他なりません。

 知とは無関心でいられないもの、その意味でまず心を揺さぶるものなのです。

 つまり欲望が知の条件と見なされているということです。しかしフロイト以来よく知られていることですが、欲望の条件とは、フェティッシュという補綴物です。

 ところが味わい深いものとしての知は、消失の危機に瀕しているように思われます。

◇ アナログ的綜合のテクノロジー――ヒュポムネーシスの突然変異

アルファベットという筆記体系は、文字による記憶の綜合です。

 視覚と聴覚のアナログ的綜合のテクノロジーである写真と蓄音機が、アルファベットのように、過去の要素を物理的媒体に固定した上で、その要素を正確に保存し伝えることを可能にしたのです。

 そしてこれがまさに、文字によるかアナログ技術によるかを問わず、記録というもののオルトテテッィクな性格なのです。

二〇世紀後半になって、まずは情報科学を通じて、デジタル技術によるオルトテテッィクな綜合が登場します。それは記憶の新たな革命であり、私が哲学の伝統にならって時間の脱自態と呼ぶもの、つまり過去と未来と現在の関係を、あらためて深層から変形させようとしています。
 後成的系統発生の蓄積の変遷は人間の特質を形成しますが、その変遷の主要な帰結とは常に、この時間の脱自態の三項関係の変化なのです。

*時間の脱自態 ハイデガーは、時間性を「根源的な脱-自」である(時間性は存在するのではなく、時間性として成熟する=時間性になる)と規定し、時間性の諸相である現在・過去・未来を「時間性の脱自態」と呼ぶ。『存在と時間』

 産業革命以来、とりわけ二○世紀と二一世紀、われわれは時間化の諸条件の大変動を、つまり個体化の諸条件の大変動を生き続けているのです――つまり個人であれ集団であれわれわれが、われわれであるところのものになる、そのプロセスの諸条件の大変動を生き続けているわけです。
事実われわれは本質的に時間的存在であり、われわれの時間に対する関係は、もとよりわれわれの時間性のエピフロジェネーズ的基盤により決定されます。時間との関係はつまり、われわれ自身との関係です。この意味でのわれわれとは、到来すべき者であり続け、常に未来を持ち、本質的に未来の様態の内にあり、自らのエネルギーと関心をすべて傾けて、われわれがどうなるのか――さらに、われわれがなき後世界がどうなるのかまでも――先取りしようと(多くの場合は空しく、しかしその甲斐なくというわけでもなく)試みるのです。

 この経済は産業による、意識の時間の開発[搾取]の上に成り立ちます。この際消費者の身体を備えた自我の集合は、巨額化する一方の投資を償却するために大企業が必要とする世界市場となり、意識はその時間的可能性の限界まで開発[搾取され]、ある種の土地や動物のように荒廃させられているのです。

◇「時間的対象」――三つの過去把持

時間的対象はそれ自体の流れにより構成されます。時間的対象が私の意識に対して現れるための条件とは、この対象が消え去ることです。それは現れるにつれて消えてゆくのです。

 メロディも流れてゆくものです。

 われわれの意識は流れ、その意味で持続します。これがベルクソンの言う「意識に直接与えられたもの」です。私の意識は本質的に持続であり、したがって流れである。

 メロディとは、さまざまな高さと長さを備えた楽音の継起です。

私の耳に現前しているもの――はそれ自体の内に、それ自体において構成されますが、その構成を担うのは、このもの[対象を構成するもの]はそれ自体の内に、それ自体が連なる要素、つまりそれ自体に先-行する様子を保持しているという事実です。

楽音が楽音として構成されるのは、その音が先行する楽音を自らの内に保持する限りにおいてである。このことが意味するのは、時間的対象を知覚すること自体において、時間的対象の現在には、ある根源的な過去が住みついている、フッサールが過ぎた、ばかりの – 過去と名付ける過去が住みついているということです。このように、現前している楽音の内に、先行する楽音が留置されること、あるいは保存されることを、フッサールは第一次過去把持と呼びます。

映像のカットは、象徴と時間の効率性において構成されますが、その構成を担うのは、もともとカットには先行するカットの直接的な記憶が保たれているという事実です――フッサールが未来予持protensionとでも言えましょうか。つまり編集と、そこで張りめぐらされる諸関係は後続するカットへの期待を生み出すのです――そしてそれこそがシーケンスのまとまりも生むことになります。

第二次過去把持の方こそ想像力の産物なのです。

過去把持のこの二つの様態は対立するわけではありません。それどころか絶えず組み合っているのです。

われわれは一人ひとりが過去把持のタイプをはじめに選別していること、そしてとりわけ、各人の第一次過去把持同士の差異と強く結びいているのは、各々の第二次過去把持、つまり言述を聞く前から各人がすでに持っていた知識である、ということでしょう。ここで私は、各人の過去の経験によって蓄積されたさまざまな第二次過去把持を「知識」と呼びますが、その数だけ地平つまり未来把持が成り立つわけです。

第二次過去把持は、第一次過去把持を選別する際の基準という役割、つまりある音楽という時間的対象を聴く中で音楽的現象が構築される、その条件を決定する期待の地平としての役割を果たします。

◇ 視聴覚メディアの登場と記憶の産業化

 言葉で言い表されたことのテクスト上における固定は、ここでは厳密な意味での解釈学的な差異をもたらします。私がかつて文字を用いた差延を孕む同一化と呼んだのは、この文字による第三次過去把持であり、テクストはずっと同じであるけれども、そのテクストの反復ごとに毎回異なる新たな読解が絶えず生まれるのです。

イスラムは北米と並んで,西洋の非ヨーロッパ的側面であると私はしばしば考えます。

 私の仮説によると、この時代は、おそらく西洋の終焉であると同時に、あらゆる形における記憶(生物学的記憶も含む。遺伝子操作はいわば生体の「第三次化」です)の産業化、すなわち商品化のプロセスとしてこの新時代は、精神の歴史上の一大危機、ひょとすると壊滅的な危機の舞台である(ここでいう精神の歴史とは、人間の個体的・集団的時間性――人間のエピフィロジェネーシズ的条件が可能にする「幽霊性=再来性」と反復によって構成される時間性――の展開の包括的プロセスを指す)。

 現下の状況が引き起こしている世界規模での生きづらさを考え合わせれば、また現代の状況が、数千年来続いてきた心的・集団的個体化のプロセス――西洋とそのさまざまな構成要素がとりわけそこに含まれる――の無化と重なり合っている以上、きわめて反動的な傾向の誘惑が生まれてくるのは避けられません。そうした誘惑は、さまざまな排外主義や狂信的教条主義(世俗主義もその一例)、ありとあらゆる形のルサンチマンから成ります。だから現代はこれほど不安に満ちているのです。

*心的・象徴的個体化 シモンドンの概念。「私」は「われわれ」の中でのみ、つまり集団の歴史を継承することを通じてのみ「私」になること(心的個体化)ができるが、このプロセスを通じて集団自体も(超越論的な)「われわれ」として構成される(集団的個体化)。「私」と「われわれ」を結びつけるのが過去把持のさまざまな仕組である(これらの仕組みも、用いられることにより個体化する)。

 産業化した時間的対象が流れる時間と、われわれの意識の時間が重なり合う結果として、時間的対象をわれわれの意識の対象、つまり注意の対象とすることで、われわれはその対象の時間とぴたりと寄り添い、これを取り入れるのです。われわれは時間的対象と近しく一体化するあまり、時間的対象がわれわれの意識本来の時間性に取って代わるわけです。文化産業による時間的対象の力の破壊的な利用とは、このようなものです。

産業が自らの基準ばかりを、意識を特徴づける過去把持の現象に押し付ける、これがヘゲモニーと呼ばれる状態ですが、そうなった時点から意識は荒廃します。

◇シンクロにゼーションとディアクロニゼーション

 実はコンテクストが解釈を条件付けるのは、時間的対象について、第二次過去把持が第一次過去把持の選別を条件付けるのと同様なのです。テクスト読解のコンテクストを変化させる条件は二つ、すなわち空間と時間です。同一のテクストが、同一の時点で二つの異なる場所において読まれれば、二つの解釈が生まれるし、同一の空間において二つの異なる時点で読まれても、やはり異なる意味を持つ。われわれはここでまた、同一物の反復における差異の発生と関わるわけです。

 プラトン形而上学の第一の目的は、この可変性を排除することです。

 私はこれとは逆に、アナムネーシスは本質的に解釈であると考えます。テクストはその本質からして無制限に解釈可能なのですから。テクストの最終的解釈などありません。

解釈の可能性は、テクスト受容の大いなるディアロニック[隔 – 時]性の現れであり、ディアロニック性が解釈のプロセスを引き起こします。

 産業は生産者と消費者の分離を前提としますが、この条件はアナログ式記録機器の到来により十全に満たされるわけです。文字による綜合では、実際に作家にはならずとも、書く能力がなければ読み手にはなれません。ところがオーディオヴィジュアル・イメージを受け取ることは、自分でイメージを生産する能力が一切なくても、全く可能なのです。

 アナログ式記憶テクノロジーとともに突如出来した非対称は、共同体化の前触れである、文字を用いた第三次過去把持の地平を破壊し、市民間の公平な分配(法の下における平等。これは今言及した、共同体化の法的・政治的な言い換えです)に代えて、生産者 – 消費者間の不平等をもたらします。機械化の進展により、労働と社会的役割の新たな分離が生じたゆえの不平等です。この象徴の不平等は経済的不平等にともないますが、経済的不平等と少なくとも同等に深刻なものです。個人から個人の時間を、したがって自分自身を剥奪してしまうからです。

 時間的対象のアナログテクノロジーとともに、新たな個体化の衰退が起きています。この衰退は意識からディアクロニック性を、つまり各々の意識の特異[唯一]性を奪おうとします。

◇「特異」と「特殊」、あるいは「市民」と「消費者」

 産業社会の第一の課題はしたがって、社会を構成する個々人の行動に修正を加えることであり、その個々人はもはや市民と呼ばれず、消費者と呼ばれます。消費の対象、経済財自体が、個々人の社会化の主要な操作手となったのです。この意味で、産業民主主義体制の諸国にとってマスメディアを欠かせません。マスメディアは、新奇なものの唱道者としての役割と、資本主義の現代的特質そのものである、蔓延する取り入れプロセスの媒介者としての役割を果たすのです。

 いつの時代にも、過去把持のさまざまな仕組みが存在しました。権力とは常に、過去把持を選別する際の参照基準の産出を、たとえば教育モデル、宗教の教義、法規制等の決定を通じて支配しようと目論む何かです。しかし過去把持の制御は文化産業(私はそこに情報技術と電気通信も含めます)に依存するようになるまでは、選別プロセスは常に至高の基準に従っていました。この至高の基準それ自体は計算の対象になり得ない、なぜならそれは文字通り計量不能だったからです。

 地上の正義というものは決して果たされることのない約束であること、たとえ権利上は、正義があらゆる社会的行動の基準であり続けなければならないにしても、事実上、不正が横行していることは誰もがわかっている。しかし一方で、正義が計量不能な基準であることを認めなければなりません。つまりこの基準は、計量・計算可能な現実を物差しにした評価の対象にはなり得ません。そのような現実は事実上、常に不当です。

 正義を何が何でも実現しようとすれば、地獄さながらとなるでしょう。まさに、正義が単なる計算の対象になり得ないからです。しかしそれでもやはり正義は理念的対象として、経験の、つまり生きられる経験の可能性そのものを構成します。この意味において、正義は計算不能です。正義は経験の物差しでは計れない、ですから「市場の民主主義」はまやかしなのです。正義は単に、経済の主役たちの計算可能な諸行動の均衡から生じるものではあり得ず、市場に何らかの政治を打ち立てることはできません。政治は、あるいはより一般的に言えば心的・集団的個体化は、特異[唯一]に-なることの内にしかあり得ません。ところが市場は、特殊に-なることしかもたれさないのです。
 計量不可能性はあらゆる特異[唯一]性の条件です。

 計量不可能性はまた芸術作品の証し、哲学の証し、そして「精神」と呼ばれるものの全所産の証しでもあります。ところが、法[正義 – 公平]と現実の間のこの計量[通約]不能な差異は、なすべき差異であり、自ずと与えられることは決してなく、厳密に証明-不能で、その点においてあらゆる意識の責任であり、原理的には解消不能でありながらも実際は常に脅かされています。過去把持のさまざまな仕組みが、常に償却計算の対象となり得なければならない市場の基準に従属することにより、無条件に清算されつつあるのが、まさしくこの法[正義 - 公平]と現実の間の差異、すなわち精神そのものなのです。

 現在の傾向として、人びとの意識はシンクロし、同じ時間性を取り入れ、したがって各々の特異[唯一]性を失おうとしています。ところが、自由とは本来的な意識による行為であるという意味において、意識とは本質的に特異[唯一]性です。

 哲学とは本質的に、どのような意識にも備わる思索の自由を肯定することです。

 シンクロにゼーションが圧殺しようとするのが、万人のものであるこの哲学するための潜在性であり、そしてとりわけもちろん、この万人に共通する潜在性が、特に集団的思索と政治行動として現勢化する可能性です。このような圧殺がなぜ起こり得るのかといえば、どのような意識の奥底にも、このような圧殺ばかりを望む根深い愚かさがあるからです。思索とはこの愚かさに対する闘いです。

 考えるとは、己の怠惰と闘うことなのです。そしてこの闘いがますます困難になっているのは、マスメディアが逆に組織的にこの怠惰につけ込み、これを助長しているからです。

 一九世紀以降、ニーチェとフロイト、次いで啓蒙主義の形而上学に対するさまざまな批判のすべて、そしてシステムと構造の役割の発見、およびプラクシスの問題が教えてくれたのは、意識はそれ自体の内では主でなく、自らの統制を逃れるいくつもの力を内に宿しているということです。つまり意識は精神を抑える主として、いくつもの精神[幽霊]によって住まわれ、これらの精神[幽霊]は意識に取り憑き、腹話術さながらに語っている。これこそまさに第三次過去把持の概念が明らかにしていることです。

ーー そしてとりわけ、意識の弱さの意識[自覚]の政治、私が別の機会に意識を構成する欠陥として示したものの政治を放棄してはならない。この欠陥は(諸)特質の欠如であり、バタイユが言うように、欠如の共同体を構成する、共同体の欠如でもあります。すでにプロメテウスとエピメテウスの神話が、この欠如について考えさせてくれます。この欠如は始源的な愚かさ、エピメテウスという名そのものが示している愚かさであり、これこそがもちろん、欲望と無意識を構造化するのです。

『偶有からの哲学 ― 技術と記憶と意識の話 』ベルナール・スティグレール/著、浅井幸夫/訳より抜粋し引用