概念における矛盾
現実的なものは理性的ではない。
総合の批判
全体性は概念把握の放棄と結びついている。
無規定性
概念を欠いたもの
対象を拡大するもの = 概念
仮象としてのイデオロギー
メーメー鳴く嘆きに対する抵抗
ア・ブリオリにたんにそこにあるもの = 所与のもの以上を欲する= 思考形式
総合=否定
客観性が経験されるためには、主観が必要であって、主観の消去が必要なのてはない。
主観の消去 = 量化
類似性という概念。類似したもののみが類似したものを認識しうるということ。
客観性に対する無頓着さ、すなわち政治的な状況における判断の素朴さ。政治的な状況は行為へのたんなるきっかけに過ぎない。
この態度は非合理性へと運命づけられている。
主[観]と客[観]の分離は、たんなる思考の行為によって廃棄されえないし、人間に訴えることによっても断じて廃棄されえない。
「それを口にすること」ーー〈何カモ知ラナイデソレヲ口ニスルコト〉
言葉はその不透明なものに近づく。
語とそれ自身のあいだには空隙。
直接的なものと思い込まされている主観性。
思考とは歴史の内面化である。
哲学は象徴も象徴されているものも実体化してはならない。
言葉の傾斜にただ従うのではなく、反省をつうじて抵抗すること。
もっぱら言葉としてのみ、類似したものは類似したものを認識することができる。
言葉は道具、慣習であるが、恣意的なものではなく、類似性という契機をふくんでいる。
言葉は、思想と事象のあいだで両者を分離させるものであるとともに、この分類に抗して動員されうるものである。
認識のユートピアとは、概念を用いて、概念に同一化することなく、概念を欠いたものを開示することだろう。
直観は、見とおせない形で、作品の形式法則とともに育ってきたのである。直観を取り出して標本にしようとすれば、直観は限界値以上のものを提示することはないだろう。
幻影に対する抵抗こそが、深さの尺度てあるだろう。
苦しみとは主観にくわえる客観性の重圧だからである。自らの表現という、主観がもっとも主観的なものとして経験するものは、客観的に媒介されているのである。
哲学の自由とは、自らの不自由さが言葉になるのを手助けする能力以外の何ものでもない。
客観化し静止状態に置くことによって対象を〈白紙〉にしたとたん、認識は対象を歪ませているのである。
現存のもののただなかで可能的なものは抽象的に見える。
哲学は受容するプリズムである。
人間の自由と呼びうるものが生じるのは、もっぱら自然の強制力を打破しようとする人間の試みにおいてのみなのである。この自然の強制力が黙殺されるなら、すなわち、世界が純粋な人間存在の織りなすたんなる形成物となるなら、歴史のそのような全面的な人間化のなかで自由は失われる。自由はもっぱら存在物からの抵抗において展開されるものだからである。
数学は巨大な同語反復であって、「数学の全能の支配はやはり、数学がすでに準備したもの、数学自身が作り上げたものに対する支配に限られている」。それと同様に、方法がつねに関わっているのは自分自身であり、もっとも希薄なもの、抽象的なもの、いわば世界の残りである。
事象とその概念はもはや一致していず、後者を前者の内容だなどと言い立てることは不可能である。
「事象それ自体」は否定弁証法にとって「断じて思考の産物」ではなく「むしろ同一性を潜り抜けた非同一的なもの」『否定弁証法』なのである。
普遍的な概念は、認識されるべき存在者から最良のものを、すなわち、その個別者の特殊性をそのつど形づくっているものを、切り捨てる。道具として扱いうるように、概念はそれが扱っている事物から、それらが他の多数のものと共有している抽象的なものだけを残しておく。
『否定弁証法講義』T・W・アドルノ/著、細見和之・河原理・高安啓介/駅より抜粋し引用。
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