第5章 詩的弁証法ーーラビード・ブン・ラビーアとマラルメ
大きな力とは、内在性という原理を厳密に維持しているということである。
主体とは、虚空が顕わになることによって生じる者、自分自身に対するこの距離に固執することを選択する者のことである。虚空とは、場が在ることそのもののことである。
第6章 思考のメタファーとしてのダンス
ダンスは、どのようにして衝動が運動のなかで効力をもたなくなってしまうのかを示す。したがって問題となるのは従順ではなく、抑制なのである。
したがって、ダンスのなかには、何か時間以前のもの、前時間的なるものがある。
ダンスとは、時間を空間のなかで宙づりにするものなのだ。
だが、あるのは雑多な諸真理であり、思考の様々な出来事からなる偶然的な多である。
これは眩暈と正確さのあいだの関係の絶え間ない再分配を前提とすることである。必要なのは、今日の身体には身体-思考として自らを示すことが可能だということを絶えず証明し直すことである。
第7章 演劇に関する諸テーゼ
演劇とは、単純化の、物的かつテクスト上の一つの経験である。
だが、単純さの獲得そのものが単純であると信じないようにしよう。
悲劇が思考するのは要するに欲望の国家的な試練である。喜劇が思考するのは欲望の家族的試練である。
演劇は常に、少しだけ支配された偶然性による永遠の観念の補完なのである。
明らかに、もし批評の宛先が、あまりに限定されており、あまりに共同体的になりすぎてしまっており、あまりに社会的に強調されすぎているなら(なぜなら、新聞は右派あるいは左派だからであり、あるいは「文化的な」グループとしか関わらないからである)、批評は時おり公衆の類生成に反する形で作用する。
批評が監視しなければならないのは、その偏向性ではない。これは必要とされる。監視すべきなのは、流行に従ってしまっているかどうか、コピーかどうか、続き物の無駄話であるかどうか、「勝利の救助に向けて飛んでいく」精神かどうか、あるいは、あまりに共同体的な観衆への奉仕であるかどうかである。
私たちの問いとは、肯定するという勇気、局所的なエネルギーに関する問いなのだ。一つの点をつかみ、それをつなぎとめること。
演劇では明瞭な形で、ほぼ物理的に観念との出会いが問題になる一方で、映画ではーーとりあえず私が主張しようとしていることなのだがーー、観念の通過、ほぼ観念の亡霊といったものが問題となるのだ。
『思考する芸術―非美学への手引き 』アラン・バディウ/著、坂口周輔/訳より抜粋し流用。