mitsuhiro yamagiwa

2022-04-18

親密さとよそよそしさ

テーマ:notebook

第 II 部 関係

4 ハイブリッドな関係性

 それまで何気なく用いられる言葉がある「概念」へと転じるのは、従来その内実を支えていた基本的な前提が崩れるときである。

 「関係性」という言葉は、基本的にわたしたち一人ひとりが他人とのあいだに結ぶ関係を総体的に示すための抽象名詞にすぎない。しかしながら、かつて社会のなかで漠然と共有されていた関係のありかたが崩れ、それが新たなーーあるいは多種多様なー関係によって置きかえられるとき、ひとはその内実についてあらためて問うことを迫られる。

流動化する共同体

 従来であれば物理的に接触可能な範囲をベースに構築されていた強固な関係性は、これらの情報技術の後押しによって、より手軽かつ遠隔的な関係性へと拡散していった。

 家族や地域共同体に支えられた関係性が失われ、高度な情報技術に支えられた流動的な関係性がそれに置きかえられていくなかで、人々の関係性の変様に注目する、あるいはみずから参加者と新たな関係性をつくり上げるタイプの作品が存在感を増してくるのは、ある意味で当然の帰結だからである。

複合的な関係性

 現在わたしたちが直面しつつあるのは、近さと遠さ、親密さとよそよそしさの両者が重なった、複合的な関係性である。

6 リレーショナル・アートをめぐる不和ーージャック・ランシェールとニコラ・ブリオー

 ランシェールが考えるように、「感性的なもの」の再分配をめざす試みは、本来的に政治的かつ感性的なものなのだ。したがって、その具体的な表出としての芸術作品もまた、およそ政治的なものと無縁ではありえない。それどころか、芸術と政治はそれぞれ領域を異にするものではまったくなく、いずれも同じ「感性的なものの分有」がとりうる二つの形式なのである。

政治的芸術をめぐるパラドクスーーランシェールによるブリオー批判

 つまり芸術の「美的体制」においては、作者の感性的形式、作品に内属する感性的形式、受容者の感性的形式の断絶こそが重要視されるのであり、「表象的体制」や「倫理的体制」とは違って、それは作者・作品・受容者のあいだに一定の「距離」をもたらすものであるとされる。このような芸術の定義はネガティヴなものだろうか。そうではない、とランシェールは言う。なぜなら芸術作品のもつ政治的な潜勢力は、まさにここにこそ存在するからだ。端的に言えば、「制作=行為(faire)が政治的であるのは、それが作者の意図、作品の形式、受容者の視線という「あらかじめ定められた連関」を「宙吊り」にすることができるからである。

 まず、芸術が政治的であるとすれば、それは芸術がこの世界の秩序にしたがいながら、諸々のメッセージや感情を伝えるからではない。また、それかある社会の構造や、さまざまな社会集団の対立ないし同一性を表象しているからではない。芸術は、それがみずからの役割に対してとる距離によって、それが創設する時間と空間のタイプによって、そして時間と空間とを切り分けるその方策によって、政治的だと言えるのである。

 芸術の外部となるような現実の世界など存在しない。そこに存在するのは、共通の感覚可能な織物のなかの折り目や折り返しである。そこでは、美学の政治と政治の美学が統合し、そして分裂する。現実的なものは、それじたいとして存在するわけではない。われわれの現実として、すなわちわれわれの知覚の、思考の、介入の対象として与えられるものの、諸々の布置が存在するのである。現実的なものとは、つねにある虚構[fiction]の、すなわち空間の構築の対象なのであり、その空間のなかでは、[われわれに]見えるもの、言いうるもの、為しうるものが縫い合わせられているのである。

虚構としての芸術/政治ーー美学ブリオーによるランシェールへの応答

 ブリオーは、「世界を不安定な状態に保つ」ことこそが、今日の芸術における倫理的なプログラムの核心であると述べる。

 われわれが生きている世界は、純粋な構築物、すなわち上演、編集、作曲、物語でしかない。そして、それを分析し、語りなおし、イメージやそれ以外のなんらかの手段に応じて変化させていくことこそ、芸術の機能なのである」。

 われわれの現実とは「交渉の産物」であり、その現実を超出する外部のようなものははじめから存在しない。芸術の仕事とは、現実として与えられている知覚を破壊し、新しい現実をーーひとつの虚構としてーーつくり上げることなのである。こうしたブリオーの立場は、政治と芸術をともに「虚構」の制作=行為(faire)と捉え、両者を重ね合わせるランシェールの議論を想起させる。そのことを念頭におくならば、芸術と政治の関係は「虚構から現実への移行」ではなく、「虚構を産出する二つの方法」の関係に等しいというランシェールの主張にブリオーが同意しているという事実にも、さほど驚くべき理由はないように思われる。

出会いの唯物論

 『関係性の美学』において論じられた作家たちに共通するのは、ランシェールが非難するような「芸術」と「政治」を性急に同一視するような姿勢ではなく、「形式的な問題へのアプローチ」である。

 芸術作品は存在する一連のフォルム全体のひとつの部分集合にすぎない。エピクロスやルグレティウスが先鞭をつけた唯物論的哲学の伝統において、原子は微妙に傾いた経路を通りながら、虚空の中を平行に落下する。その原子のうちのひとつが道を逸れたら、「それは隣の原子との出会いを引き起こす。そして、その出会いが積み重なった結果、世界が生まれる(……)」。これが、フォルムが生じるまでの道筋であり、それは「偏り」から、それまで平行していた二つの要素の偶然の出会いから生まれる。世界を創造するためには、この出会いが持続可能な出会いにならねばならない。つまり、それを形成する諸要素が、あるフォルムにおいてひとつにならねばならない。言いかえると、「(氷が「固まる」と言うように)それぞれの諸要素がひとつに固まる」必要があったのだ。

 この世界の事象には、諸々の要素の「出会い」以外の原因や目的はいっさい存在しない。われわれが経験する事象のすべては、不確定で偶発的な原子の「出会い」の産物であり、われわれがそこに見る因果や法則はあとから付け加えられたものにすぎない。アルチュセールはそれを、暫定的な名称として「出会いの唯物論」とよぶのである。

『 美学のプラクティス 』星野太/著より抜粋し流用。