日本語版への序文
十分な報酬を得ている著名なアーティストが「労働 ワーク」という言葉を自らのために利用することはほとんどない。評価と認知度という点で言えば、こうした立場間の距離はますます広がり続けている。
二〇二三年八月
プロローグ
芸術作品の地位はミニマリズム、プロセス・アート、フェミニスト批評、コンセプチュアリズムによって問いに付された。作ること(および作らないこと)についての四人の形式は、従来的な芸術における労働を強調すると同時に毀損するものであったのだ。
ベトナム戦争時代
アートワーカーたちは、芸術的労働を強調することによって、反戦やその他の抗議のポリティクスを美術界において可視化したのてある。
美術館がポストスタジオとしての作業場となり、管理者の権威の場となり、反戦運動の標的にもなったように、芸術における労働は美術制度とのなかで形作られていたのである。
1 アーティストからアートワーカーへ
連合のポリティクス
視覚イメージに支配された戦争の時代に多くのアートワーカーが、視覚イメージの作り手としての反戦運動に何か独自の貢献ができるかもしれないという実感をもっていた。
2 カール・アンドレの労働倫理
ミニマリズムの倫理的土壌
アンドレの重要な作品の多くは「等価物」で提示された形式ーー木材や気泡ゴムからレンガの列、金属板までを、シリアルで幾何学的なユニットとして直に床に置くというものーーに従っている。
「等価な」ユニットを使うことである種の非ヒエラルキー的な水平性を志向していたとはいえ、アンドレの難解なオブジェにポピュリズムは見当たらない。アンドレの作品は、新たな日用品を生み出す素材の実験でもなければ、値踏みされる労働者のリアリスト的な描写でもなかった。
アンドレは素材を用いて空間に絵を描く。そこで重要なのは選択と配置である。
閉じたドアの奥で素材を操るのではなく、アンドレは美術館の床を第二のスタジオ・スペースにする。言い換えれば、美術機関が彼の仕事場になるのだ。
アンドレとアートワーカーズ連合(AWC)
アンドレによる他人の言葉の全面的な流用は、工業生産の精神とつながるところがあるーーここでもアンドレは、自分で「作品を作っていない」のである。
アンドレが他人によって書かれた言葉を読み、それを自らの言葉として主張したことは、従来的なオーサーシップのあり方を混乱させ、作り手の役割を消去する政治的な流用や再利用という、より広範な戦略を示唆しているようでもある。
3 ロバート・モリスのアート・ストライキ
スケールの価値
アーティストの労働を物質化することによってのみオブジェは適切に脱物質化されうるのだと、モリスなら言うだろう。モリスは自身の労働価値が整備工やインストーラーと同等であることを望んでいた。
マイケルソンはモリスの作品のスケールが制度的な側面を含んでいること、すなわち、スケールがいかに美術館の実現可能性の限界そのものに圧力をかけようとしているのかを理解している。美術館は何を収容でき、どれだけのサポートができ、アーティストや鑑賞者にどれだけ柔軟性を認めることができるのだろうか。
「芸術をどう提示し、どう差し控えるかが政治的なのだ」。
ルーシー・リパード
解題 ワーカーとしてのロバート・モリスーー「脱物質化」のジレンマのなかで
鵜尾佳奈
ホイットニー美術館の個展での「脱物質化」は、美術市場に商品として作品を絡め取られることを忌避する企図であっただけでなく、権力を行使される側の立場、あるいは美術界で働くワーカーとして、美術館による象徴的支配から逃れようとする身振りであった。
4 ルーシー・リパードのフェミニスト労働
三つの反戦展
言語を基盤とするコンセプチュアリズムは「芸術作品」の範囲も拡大したが、これはリパードが言葉を媒介として批評家、キュレーター、コンセプチュアルアーティストの仕事をより一層流動的に移動するようになったことも説明している。しかしそれは物語のほんの一部でしかない。
言語を基盤とするコンセプチュアリズムは「芸術作品」の範囲も拡大したが、これはリパードが言葉を媒介として批評家、キュレーター、コンセプチュアルアーティストの仕事をより一層流動的に移動するようになったことも説明している。しかしそれは物語のほんの一部でしかない。
抗議を工芸 クラフト する
労働とは「毎日繰り返される雑事という単調なパフォーマンス」のなかで世界の衰退と戦うことだとアーレントは記す。
5 ハンス・ハーケの事務仕事 ペーパーワーク
《ニュース》
情報は増殖し、蓄積され、恣意的に順序づけられる。
AWCとコンセプチュアルアートーー美術館を脱中心化する
ハーケの作品は、ジャーナリズムと芸術というカテゴリーの総合排他性を問いただすように求めている。
表向きは公共性があるように振る舞う美術館の「偽りの寛容さ」を糾弾し、美術館は「芸術作品を備え、この自由を利用する特権をもつ人々のために確保されている」と書いている。
[……]脱中心化は、言葉や写真、簡単てすぐに持ち運び可能なメディア、あるいはアーティスト自身の物理的な移動によって生じるのです。
AWCの結成と脱中心化の呼びかけをきっかけに、一九六九年以降のハーケの作品は、美術館が実際の場とイデオロギー的な場の両方をどのように占拠しているかを積極的に問うものとして機能することになった。この目的のために、ハーケはデータ採取と情報収集をサイトスペシフィックに行う手法を編み出していたのである。
情報 インフォメーション
ハーケは自らが批判した空間の内部に物理的に作品を置くことで、それが美術館という文脈に依存するものであることをはっきりさせた。《MOMA世論調査》は「芸術」というカテゴリーに分類される一方で、その地位を与えているまさにその場所についての批評を行う。ハーケは、自分の作品は施設/制度の外側ではなくその内側に位置するときにこそ、より明確で有効なものになると感じていた。
コンセプチュアルなプロセスの強調は、事情に依存した芸術への異議申し立てを意味していたのであり、コンセプチュアルアートに「死」が訪れるのは、それが制度に吸収されたときであった。コンセプチュアリズムの言語的基礎や、市場に対する抵抗力とされたものは、メディア化されたスペクタクルに対する解毒剤とは言わないまでも、ひとつの反動として多くの人々に受け止められていた。
「政治」はいまや管理されたスペクタクル、周到な宣伝、戦術的パフォーマンスの場となった。一九六〇年代後半から七〇年代にかけての多くのアーティストたちは、この「イメージの戦争」に意味のある介入をするため戦略を練るよりも、作品を作らないことを、少なくとも(アート・ストライキのように)作品の展示をやめることを選んだ。疑似ジャーナリズム的制度批判は、この情報戦争に介入する方法を探し求めるアーティストにとってひとつの選択肢となった。
「政治」はいまや管理されたスペクタクル、周到な宣伝、戦術的パフォーマンスの場となった。一九六〇年代後半から七〇年代にかけての多くのアーティストたちは、この「イメージの戦争」に意味のある介入をするため戦略を練るよりも、作品を作らないことを、少なくとも(アート・ストライキのように)作品の展示をやめることを選んだ。疑似ジャーナリズム的制度批判は、この情報戦争に介入する方法を探し求めるアーティストにとってひとつの選択肢となった。
美術館はベトナム戦争反対の立場をとって来場者を「民主化」するだけでなく、より現代的で実験的な芸術を展示する必要に狭らていた。
ジャーナリズム
特にコンセプチュアルアートは仕事/作品の否定と見なされていた。一九六〇年代後半、コスースは「コンセプチュアルな芸術作品」は言葉として矛盾していると主張し、「芸術命題」という言葉を好んでいた。ここでは芸術の「技術」と呼ばれるもの、つまり従来の制作における労働の否定が反映されている。しかし、制作における労働は脱技術化というよりも、再技術化されていた。つまり、制作における労働は消滅したのではなく、従来的な美的効果の生産から別種の試みに変換されたのである。《シャポルスキー》は、地図制作に要したハーケの労力を明確に示すという点で際立っている。この作品は何よりも精力的な調査の記録なのだ。特に写真は長時間マンハッタンを歩き回ったハーケの道のりのインデックスであり、そこに労力の不足は見られない。むしろ、この作品は過剰なほどの労働量を示唆し、記録からなる膨大なアッサンブラージュは精神的・肉体的労働を写し取ったものとして機能している。それは、マクシャインが言うところの「ほんの少しの絵具を垂らす」ことではなく、情報収集という労働の究極のパフォーマンスの記録なのである。
ハーケの作品は、アーティストによる生産レベルで「新しい技術を要求する」(美的な作品制作の伝統的な手順を放棄する)だけでなく、鑑賞者にも情報を解釈し選別することを求めているのだ。
理性的なものをいくぶん逸脱したこの過剰性は、ハーケの作品における情報の氾濫 オーバーフローにおいても見られ、テレタイプから吐き出される大きな紙の山でも視覚化されている。彼は図表や線の平凡さを増幅させることで、感情的な負荷をもたらしている。
プロパガンダ
一九七〇年代になると、テクノロジーが進歩すれば労働者にとってもアーティストにとっても、世界はより人間的なものになるという期待は薄れ、ジャック・バーナムのようなユートピア約展望の提唱者でさえもその失敗を宣言するほどだった。ウォルター・グラスカンプは「この一〇年で失敗に終わった二つのユートピアの影響力の高まりを意識することなしに、一九六〇年代後半のハーケの仕事の展開を理解することはほとんど不可能である。ひとつは政治的で、もうひとつはテクノロジーと関わるものだったが、それらは芸術とブルジョワの関係に終止符を打つことを約束したユートピアだった」。
「芸術はなぜ作られるのか。どんな芸術が、誰によって、どんな状況下で、どんな鑑賞者のために作られるのか。実際のところ誰が、どんな目的のために、どんな文脈でそれを使うのか」。これらは何よりもアートワーカーによって前面に押し出されてきた問題であり、情報と非物質的労働による生産に依存する私たちの現在の経済にもつきまとい続けている。アンドレやモリスのような昔ながらの職人やブルーカラーの建設労働者としてのアーティストよりも、専門知識人、ジャーナリスト、(トレヴァー・パグレンなどによる新しいドキュメンタリー作品に見られるような)アーカイブ・ハンターとしてのアーティストといったモデルのほうが、その後の三〇年を見ても、はるかに息の長いものであったことが証明されている。一九六〇年代後半に起きたアーティストからアートワーカーへの移行の試みは、多くの誤った認識を伴うものであった。しかし、アーティストのアイデンティティを政治的に再編成しようとしたこの試み自体を、たんなる失敗に還元するべきではない。明確なアイデンティティとしてのアートワーカーの生は短かったが、その試みは生産的でもあった。この生が、制度批評をはじめとする新たな芸術の形式の到来を告げたのである。
解題 制度批評のありかーーハンス・ハーケと情報マネジメントの芸術労働
勝俣涼
メディア環境の変化も手伝い、一般に芸術と呼ばれる領域が不特定の人々による参加へと開かれうる一方で、ほかの協働者ないし従事者とその位置を交換・通約することの困難な、いわば解消しがたい余剰を抱えた主体の存在が問題となりうることを示唆している。この困難には、「芸術労働」を標榜した者たちが直面した、「芸術(家)」と「労働(者)」を調停することの困難が反響してはいないだろうか。
現代における情報環境の変化はまた、社会体制をめぐる批判的アプローチをも問い直すかもしれない。近年、人工知能技術の発展に伴い、私たちの欲望はレコメンドエンジンによってフィルタリングされ、また(造形表現も含めた)知識労働の生産物は少なからぬ規模で機械的に「学習」されつつある。そしてその学習結果は、ブラックボックス化された回路を通って、見たところは民主的で開かれたプラットフォームを構成することとなり、それが一面において収奪や疎外を伴っている事実は意識されにくい。ハーケの《MOMA世論調査》が「ロックフェラー」という不正義を象徴する具体的な固有名を標的としていたのに対して、私たちの時代の身体は、そうしたわかりやすい象徴に代表させることが困難な、言ってみれば「顔の見えない」調整的な情報マネジメントの機構=システムへと取り込まれつつある。こうした目下の状況において、制度批評的な制作実践もまた、さまざまな形で練り直すことができるのではないだろうか。
エピローグ
「アーティストがストライキを起こした場合、誰に対してその作品展示を指し止めることになるのだろうか。悲しいかな、ほかならぬ自分たちアーティストに対してだ」。この発言は、かつてあれほど説得力のあった集団が展示差し止めという戦略から方向転換したことを意味している。
しかし、アートワーカーの作品とアクティビズムを実践として理解しようとするとき、それらを「成功」や「失敗」という単純化された考え方で測るべきではない。
アートワーカーが介入しようとしたのは、まさに自分たちが重大な影響を与えた領域=すなわち美術館という空間とその政策であった。リパードが書いたように、「アーティストは自分たちの生産と流通においてある程度の主導権をもつべきだとAWCが臆面もなく提案したことで初めて、アーティストと美術館の関係は根本的に変化した」のであった。一九六〇年代後半から七〇年代にかけてのアートワーカーは、作品に抜本的な価格設定の仕組みを導入し、集団的なプロセス作品を制作し、アート・ストライキを宣言し、チャリティ展を開催し、情報を政治的に方向づけ直すことによって、美術館やギャラリーの「マネジメントされた」空間を弱体化させようとした。芸術がほかの制度上の利益に資する、あるいはそれに反する可能性があるという考えだけでなく、作品のコントロールをめぐる考えもまた広く浸透したのである。しかし、一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけてと現在の距離を測るうえで、近年のアーティストによる組織化のための奮闘の事例は参考になる。たとえば、一九七一年のアーティストの権利契約書が好例だが、多くのアーティストが作品のコントロールの問題から離れ、代わりに知的財産の開放、クリエイティブコモンズの採用、著作権による制限の廃止を提唱していった。グレゴリー・ショーレットの重要な研究は、一枚岩に思われるアートマーケットから少し外れたところに、作品の生産と流通をめぐる広範で非公式な経済が存在していることを思い出させる。
美術機関を一枚岩と見なす一九六〇年代から七〇年代にかけての白黒はっきりしたものの見方は、いまとなってはあまり意味をなさない。芸術がほかのオルタナティブスペースへと移るにつれ、「ミュージアム」はもはや万能ではなく、娯楽、商業、公共の文化を担うフレキシブルで複合的な空間だと見なされるようになった。マーケットが洗練され拡大するにつれ、アクティビストのアーティストたちはありうる抵抗の手段を再考し続けてきたのである。
芸術という作品/仕事の輪郭の変容は、経済全体における工業生産の変化と概ね並行関係にあり、アーヴィング・サンドラーは、ブルーカラーの労働からホワイトカラーのマネジメントへの移行か、アーティストに新たなロールモデルを提供した」と述べている。しかしおそらく、「芸術は社会を反映する」という使い古された言い回しによって示されているように、労働実践の変容が芸術の「作品 – 仕事」のなかにより一層目に見える形で表れていると主張する代わりに、むしろ逆方向への影響を指摘できるだろう。つまり、「文化産業」の台頭とともに、芸術の実践は仕事場に影響を及ぼし始めたのである。
『ART WORKERS 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践 』
ジュリア・ブライアン゠ウィルソン/著、高橋沙也葉・長谷川新・松本理沙・武澤里映/訳