>>先日、宇都宮美術館の石川潤さんからお誘いいただき、下記のシンポジウムを拝聴…。
配布されたレジュメの一部を転記します。
| 科研費シンポジウム「スイス文学・芸術における戦略としての素朴さ」
2025年11月22日(土)明治大学リバティタワー 12階1124教室
| 〈アルプス〉のイメージ 崇高とピトレスクの間で
アルプス風景画の先駆者 カスパー・ヴォルフ(1735-1783)
柿沼万里江(パウル・クレー・センター)
「風景とはもともと普遍的な現象ではなく、「芸術化」されることによって初めて認識される文化的構築物である。風景というジャンルは、人々が自然の美を感じ取る感性そのものを形成してきた。
≫ 美学化ではない芸術化?
| 悪徳世界に抗する防塁から誰をも癒す万能の故郷へ
ーアルブレヒト・フォン・ハラーとヨハンナ・シュピリにおけるアルプス牧歌の完成一
新本史斉(明治大学)
≫ スイスは、ヨーロッパの中心に見出された道徳的理想郷 アルカディア?
| 素朴さと感傷性:ローベルト・ヴァルザーの混在と混合の詩学
フランツ・ヒンターエーダー = エムデ(山口大学)
感傷的な詩人は自然からの距離や疎外を意識している。
ヴァルザーは、自らの「スイス性」を掲げたり外向きに示したりすることはなかった。それでも、彼は言語遊戯的な創造性を通じて、ドイツ語文学に紛れもないモデルネ時代のスイスの声を与えたのである。
| 危うい均衡:フィッシュリ&ヴァイス(1979-2012)における素朴さの反転
石川潤(宇都宮美術館) 柿沼万里江(パウル・クレー・センター)
彼らは、芸術という枠そのものを静かに問い直している。マルセル・デュシャンやディーター・ロート、ジャン・テインゲリーらの系譜を継ぎながら、Fischli & Weiss は「芸術とは何か?」という根源的な問いに、軽やかに、しかし誠実に向き合っている。
一見すると彼らの作品は、単純で子どもの遊びのようにも見える。だが、その無邪気さの奥には、世界を単純に、信じきれない痛みや、あたりまえを疑う小さな棘が潜んでいる。その棘は、人間の善意がまだかろうじて息づく証のようでもあり、同時に、攻撃や皮肉へと変わりかねない危うさをも含んでいる。彼らの問いかけはいつも、「本当にそうなのか?」と自分に尋ねるように、どこかおずおずとした優しさを帯びているのだ。子どもの心をそのまま抱えたまま大人になった人が感じる悲しみには、深い孤独がある。Fischli &Weissの作品には、そうした孤独を受け止めながらも、なおユーモアと驚きを忘れない温かさがある。素朴さの中に棘を隠す彼らの手法は、パウル・クレーやローベルト・ヴァルザーの作品にも通じものがある、と発表者たちは思う。彼らは、悪意に満ちた現実に夢のような善意を対置するのではなく、ナイーブであることの痛みをも受け入れる。そのとき、私たちの目の前には、ほんの一瞬だけーー現実のすぐ隣にあるもうひとつの現実が、ふっと姿を現すのだ。それは決して計算された仕掛けではない。Fischli & Weissの作品は、いつも静かに、けれど確かに、私たちに「見ることの意味」を問いかけている。
《 Plötzlich diese Übersicht(不意に目の前が開けて)》1981(図版)
作品には、世界を秩序づけようとする人間の試みがさまざまなシーンとして表現されている。しかし、その試みは決して成功することがない。むしろ、世界を「理解しようとすること」自体の不条理さが、ユーモラスかつ批評的に浮かび上がる。
モノリスの寓話(図版)
知識を獲得することによって人類は進化を遂げたと信じられてきた。しかし、進化とは同時に、争い、奪い、勝ち取ることでもある。知識が増すほどに、憎しみは憎しみを呼び、争いはさらなる争いを生むーー私たちはすでにそれを知っている。
彼らは「これは何だ?」と問いながらも、理解することの傲慢さや暴力性から守られている。Fischi & Weiss は、無知ゆえの無垢、愚かさゆえの自由という逆説を、ユーモアとアイロニーをもって提示しているのだ。
危うい均衡

その1《Equilibres(均衡)》2006(図版)
倉庫や台所にある使い古された日用品が組み合わされ、釘やワイヤーなどで固定されることなく、かろうじてバランスを保ちながら立っている。その姿は不思議な緊張感を帯び、見る者をハラハラさせる。このシリーズでは、やがて崩れ去る運命にある「一瞬の立体」を写真という手段で記録することによって、永続性という幻を生み出している。けれど、それは言うまでもなく「真っ赤な嘘」だ。均衡は永遠には保たれない。
Fischli & Weiss が語っていたように、「最も美しい瞬間は、バランスが崩れるその一瞬前」なのである。この「危うさ」は、物理的な均衡の問題を超えて、精神のあり方にも通じているように思う。素朴さと狂気の境界は、実のところごく近い。もし素朴さが痴呆へと傾く寸前に、精神が最も自由に、美しく輝くのだとしたらどうだろう。つまり、精神の均衡が揺らぎ、疾患の直前一一すなわち病と健康のあいだのグレーゾーンにおいて、「極度に毒のない子どもっぽさ」が立ち現れることがある。それは、いわば妖精や天使の領分と言えるだろう。(図版)例えば、クレーが亡くなる前に集中的に描いた天使の絵。それは、断片的な線が作用と反作用、バランスの崩れとその回復の運動を繰り返す対位法的な運動から、比喩的に立ち現れてくる姿である。

その2 《Rock on Top of Another Rock(石の上に他の石)》2012(図版)
《Equilibres(均衡)》シリーズから6年後に発表されたのが、《Rock on Top of Another Rock (石の上に他の石)》である。ノルウェー政府が1994年に始めた国立観光プロジェクトの一環として制作されたこの作品は、二つの巨大な岩が、絶妙なバランスで積み重ねられている。設置場所はValdreflye高原。フィヨルドや平原を貫く国道沿いの見晴らレスポットに 250ものアートや建築を配置するという壮大なプロジェクトの一部だ(図版)。この作品は、一見するとまるで自然の一部のように見える。人々は車で通り過ぎながら、それをただの風景として見逃してしまうだろう。だが、もしそれが人の手によって慎重に積み上げられたものだと気づいたなら、思わず息をのむはずだ。自然を相手に、こんなにも真剣に、そしてばかばかしいくらいに「均衡」を探っていることに(作品はこちらのリンクを参照 https://www.nasjonaleturistveger.no/de/routen/valdresflye/steinplassen/ )。
(図版)この作品は、David Weiss の生前最後の共同制作となった。2013年、彼の死後にはロンドンのSerpentine Callery でも同名の展示が開かれ、ケンジントン公園にもう一組の巨石が設置された。人工的なロンドンの公園に突然現れた二つの石。人は戸惑い、これはアートなのかと問い直す。だが、ノルウェーの雄大な自然の中では、誰も気づかないかもしれない。それこそがFischi & Weissの問いである。「アートがアートであることに、どれほどの意味があるのか?」
その問いは、彼らの初期作品として知られている 《 Der Geringste Widerstand(最小の抵抗)》(1981にもすでに芽吹いていた。(図版)クマとネズミの着ぐるみをまとった二人が、芸術でひと儲けしようと奔走し、やがてロサンゼルスのギャラリーで「これはアートなのか」と問いながら殺人事件に巻き込まれていく、そんな不条理な物語だ。美と真実を求めるほど、彼らは世界の理不尽に打ちのめされ、絶望する。けれど、そこからようやく世界に向き合い始めるのだ。
Fischli & Weissの作品は、いつもこの「均衡」の上に立っている。芸術と日常、真面目と冗談、永続と崩壊、そして理性と狂気一ーそのどれをも峻別せず、揺れ動く瞬間の美しさを見つめ続けてきた。彼らが積み上げた石も、写真に収めた日用品も、すべては崩れゆく運命のなかで、なお均衡を求め続ける行為そのものだ。均衡を保とうとするその手つきに、私たちは、崩れることを恐れずに生きるためのーーローベルト・ヴァルザーの詩「徒歩の旅人」にある言葉を借りれば一ー「くじけずに生きようとする気持ち〔unverwistliches Gefühl)」を、見るのである。
| アルプスなきアルプス
フランツ・ベーニによるヘルベティア神話との別れ
レト・ゾルク(ローベルト・ヴァルザー・センター)
ベーニの散文が描き出すのは、行為する者を麻痺させ、いかなる行動の余地も与えない、陰鬱で硬直した雰囲気である。そこには幸福や真実の暴露、浄化や変革への展望はまったく開かれていない。そのような世界は、やがて諦念や無気カーーあるいは抵抗と反逆一一へと転化していく。楽朴さ(Naivität)は絶望と反抗心へと変質し、もはや守りの純真さを失って、圧倒的な受動性と鈍い抵抗とのあいだを揺れ動く姿勢へと転じてしまう。
作品全体を導くアルプスへの参照は、繰り返し言及される「聖ゴットハルト(Sankt Gotthard)」 である。
かつてゲーテにとってヨーロッパを見渡す展望点であったこの伝説的な山は、ベーニの作品においては、技術的・産業的モデルネとその巨大構造物を象徴する暗い記号(Chiffre)へと変貌している。「最初のゴットハルト・トンネルは、技師ファヴルによって、鉱夫たちの屍の上に文字通り築かれた。[…]当時歌われていた歌にはこうあるー一『神よ、聖ゴットハルトと、それを考え出した技師たちを呪いたまえ!』」
アルブスはもはや、心を開き、視野を広げる展望の地でも、人々を結びつける国家的象徴でもなく、むしろ経済的・技術的発展を阻む障壁として立ちはだかる存在に変わっている。そしてそれを突破することこそが、人々に課せられた共同の課題であるかのように描かれている。
アルプスはもはや現実的な舞台を形成せず、むしろ「不在」であることによって作用している。それは、一種の超越的な文化記号(übergeordnetes kulturelles Zeichen)、すなわち圧倒的な超記号(übermachtiges Superzeichen)として現れ、繰り返しーーほとんど強迫的に一一参照され続ける。この強迫観念(Obsession)は、象徴的な固定化(symbolische Fixierung)を示している。
| 文学的に研ぎ澄まされた素朴さ
ー アグラヤ・ヴェテラーニーの「なぜその子どもはポレンタのなかで煮えているのか」一
ペーター・ウッツ(ローザンヌ大学)
アグラヤ・ヴェテラーニーと移民文学の「素朴さ」
文学作品における「素朴さ」は一定の留保なしには語りえない。作品として書かれる以上、つねに演出が入りこむからである。演出されることでもう、他意のない素朴さではなくなっているのである。
二つのバージョンで描かれた一つの生
この子どもの視点は、想起する距離から構成されるわけでもない。時制は現在形、文は教科書の例文じみた単純な主文ばかりだ。しかし、その簡明な一文一文には、語り尽くされることのない物語が潜んでいるかのようなのだー
読者はいまやいっそう本質的に広く、なお極度に断片的に叙述される世界をあらたに繋ぎあわせる読みを強いられる。それを可能にするのは分析的な認識であり、それは子どもらしい一人称の語り手の地平を越えてゆく。そのようにして、この書物の二つの版を比較しつつ読む行為は、「素朴さ」がいかに文学的「戦略」となりうるかを範例的に教えてくれるのである。
翻訳の天使
子どもは想像力の論理によって、ありうべき天国の多言語性を具象化し、神への直接アクセスのイメージを排除する。そして、テキスト全体の根底に流れる多言語の問題を普遍化する。明示的に書きこまれた「分からない」という子どもっぽい理解の欠如から、驚くほど鮮やかに翻訳のイメージが生み出されているーーこれが文学的に研ぎ澄まされた素朴さの最初の例である。
どこもかしこもよその国
わたしたちのところではどこもかしこも外国だ。
一見したところ単純なこの発言は「外国」という概念のうちにある線引きを掘り崩し、そうすることで意図的に論理上の矛盾に陥っている。「どこもかしこも」に遍在するようになった「外国」と、「わたしたち」という言葉に見え隠れする帰属願望とが衝突している。
言葉はいまや子どもに属するものではなく、むしろ子どもがその内部で表現することを強いられる、異質な言語体系に属するものとなるのである。
アルプスの国、スイスで
「ここ」では「寒気」がアルプスのみならず、人々の心をも冷却しているのである。
子どもである一人称の語り手も、「楽園のような」暮らしを手放しで楽しんでいるわけではない。彼女はそれを自分の歳と関連づけ、いらだちをみせている。
哀しみは人を年寄りにする。
わたしは外国の子どもたちよりも年をとっている。
ルーマニアの子どもたちは生まれたときから年をとっている、おかあさんのおなかの中にいるときから貧乏で、両親の心配事を聞かされるからだ。
ここでわたしたちは楽園にいるみたいに暮らしている。それでもわたしは若くなりはしない。
「哀しみ」だけではない、それと切り離しえない移住も人に年をとらせる。しかし出身国にも、子ども時代にも後戻りはできない。若返りなどありえないのだ、たとえそこが「楽園」であっても。「わたし」が語っているこの年齢がいくつなのかは、不明のままだ。確かなことはただ一つ、「石ころのつまった声」をあげるとき、その子はもはや子どもではないということだ。だってこの世界には無邪気で素朴な子ども時代など、子宮の中にすら、存在しないのだから。それゆえ、喪失に対する「哀しみ」なしに、子ども時代について語ることはできないのである。
≫ スイスらしさとは何なのか?! 隣接するドイツでもフランスでもイタリアでもない、その“ちがい”こそ主体、スイス性なのではないか、と。 *シンポジウム後の懇親会、イタリアンレストランにて