内容形式の自律性が損なわれ、人間は言葉という「世界」に自閉する
3-4ドゥルーズとフーコーの言葉と物(1)
そもそも表現の形式は諸々の語に還元されるものではなく、地層とみなされる社会的領野に出現する言表の集合に還元される(これが記号の体制となる)。内容の形式は物に還元されるものではなく、力能の形成体としての物の集合的な状態に還元される(建築、生のプログラム、等々)。そこには言わば互いに交錯してやまないふたつの多様体、表現の「言語的多様体」と内容の「非言語的多様体」が存在する。
表現と内容を構成するのは「言葉と物」ではなく、言表の集合体としての「言説的多様体」と物体の複合としての「非言語的多様体」であり、両者はそれぞれに固有の機序をもっており、ひとつの社会のなかでそれぞれの要素は一対一で対応するのではなくむしろ「交錯」している。
言葉であれ物であれ、ひとつの要素は他の諸々の要素との連関においてはじめてその意味や機能が説明されるという認識にもとづいている。
ひとつの社会はその社会における諸々の合体によって定義されうるのであり道具によって定義されるのではない。同様に社会の集合的ないし記号的な側面においては、アレンジメントは言語の生産性を指し示すのではなく記号の体制を指し示し、その変数が言語の要素の用法を決定するような表現の機械を指し示す。道具がそうであるようにこれらの要素はそれ自身では価値をもたない。
「赤」という語の意味は「緑」や「青」といった他の語との隔たりにおいて理解される。
3-5 視聴覚的思考ーー映画論的能力論(2)
カップリングされているのは〈眼と口〉であって〈眼と耳〉ではないということだ。つまり受容的能力(見る)と自発的能力(話す)の離接がここで問題となっており、運動イメージにおける受容的な知覚と自発的な行動の往還関係をモデルとした感覚 – 運動図式との差異がここでも確認できる。
発話が出来事を創造し、立ち上げるということ、そして沈黙した出来事は大地によって覆われるということを同時につかまえなければならない。出来事とはつねに抵抗であり、発話行為がもぎ取るものと大地が理却するものとのあいだにある。それは天空と大地の循環であり、外部の光と地下の炎の循環であり、さらには音声的なものと視覚的なものとの循環だ。この循環は決して全体を再構成することなくそのつど両者の離接を構成し、連関の不在ではなく新たなタイプの連関、きわめて厳密に非共役的な連関を構成する。
垂直に立てかけられた、直立して世界を眺める主体のための透明は窓としてのスクリーンの空間性と、力線の可変性や交錯によって立ち上がるような地質学的な空間性の対比が、ここでは運動イメージと時間イメージの対立に重ね合わされている。
この対比はより具体的には、世界を踏破し眺める主体を前提とした空間性と、対象を手で操作しそれを読解する主体の空間性という対比として論じられている。
運動イメージが〈歩く- 眺める〉主体を想定しているのに対して、時間イメージの「見者」は〈まさぐる – 読む〉主体である。ドゥルーズは「考古学的ないし層位学的なイメージは、見られるものであると同時に読まれるものだ」と述べている。
ベルクソンはあれこれの記憶を想起し役立てることの基礎として、過去=記憶の精神的な実在を想定している。過去はそれ自体で存在するのであり、脳という物質的対象をその「容器」として考えることはできない。「過去のなかに一挙に身を置くのでなければ、われわれが過去に到達することは決してないだろう」。
「過去の地層は存在する」が、その存在はつねに絶対的脱領土化の速度とわれわれを現在に拘束する地層化とに脅かされているのだ。
それぞれの過去の層、それぞれの年代はあらゆる心的な機能に働きかける。記憶だけでなく忘却、偽記憶、想像、投企、判断といった心的な機能に。そのつどあらゆる機能に満たされるもの、それが感情 sentimentだ。
過去はもはや現在に準拠して思い出される記憶という地位を保持することができない。過去のある層は、別の層との関連においてつねに変換を被っている。「諸々の出来事はたんに継起するのでも時系列的な流れをもつのでもなく、過去の特定の層への、年代の特定の連続体への帰属に応じて修正され、すべて共存する」。記憶が忘却や偽記憶さえ含むような他の心的な機能と分ち難く複合するのは、現在という特権的な投錨地点を失い、ある出来事を捉える時間的な指向性あるいは様相(その地点より過去の記憶、その時点より未来への投企、非現実的な想像、現実的な判断)を決定するフレーム自体が層に対して相対的なものとなるからだ。したがってここで「感情」と呼ばれるものは、たんに心的な傾向性という一般的な意味ではなく、知覚 – 行動の連携を支えていた記憶がそれ自体で宙づりになり「健全な」想起の作用から剥離したものを指している。身体が現在を保持できなくなるとき、記憶は非時系列的なものとなり、あらゆる感情が過去のただなかで空転する。
感情がそれだけで過去が地層化されざる実質へと、あるいは永遠の現在としての死へと変質することを妨げることができない。
だからこそ「感情は思考へと乗り越えられる」必要があり、変換の連続性こそが操作の対象にならなければならない。
「ふたつの層のあいだで行われる諸々の変換を利用して、ひとつの変換の層を構成する」。
思考とはこの「変換の層」、つまりそれ自体が変換の連続体である層を構築することであり、地層概念の時間イメージの議論への転用は、究極的にはこの思考の規定をもたらすものと考えることができる。思考は現在を準拠としてなされてるものではなく、存在する過去の諸層のどの特定の層にも位置づけることができない間地層的な変換の総体として織り上げられる。
『非美学』福尾匠/ 著