| 展覧会メモ
『日常のコレオ』
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/30th-Anniversary

・出光真子
*いきなり作品画像、失念しました。
≫ 内面化した他者からの視線…。
・佐々木健

≫ 実寸大の油絵?マッスな絵画…。洋画って重〜いんだよね。
・ジョナタス・デ・アンドラーデ
地図という統治と道具を抵抗のかたちへと変容させた。
ジュリア・サリセティアティ&アリ・“ジムゲッド”センディ
ともにジャカルタ(インドネシア)生まれ、同地拠点。
アーティストでキュレーターのジュリア・サリセティアティは、現代の移民労働に焦点を当て、移動、労働、そして人々の回復力といったテーマを探求している。アリ・“ジムゲッド”・センディは、写真や映像を用い、人々との対話と協働調査を通じて、周緑化された歴史や生活経験の記録と保存に取り組んでいる。「振り付けられた知識」は二人が 2011年から継続してきたプロジェクトで、自国の移民労働者が渡航先で生活を築く方法や、帰国後にもとの生活に適応できないといった困難を掘り下げてきた。この活動は、やがてインドネシアの教育史への関心へと発展し、キュレーターのグレース・サンボーとの協働を経て、2019年に進行形の年表として初めて発表された。本展では、この年表を発展させ、インドネシアの前植民地時代から現代までの教育政策の変選を、社会、政治、経済の変化とともに描き出している。蛇行する年表は、農業、漁業、建設、介護など、賃金が安く、労働条件が不安定な分野で働く多くのインドネシア人の複合的な背景を示す。共に展示されている映像では、日本の介護分野で働くために訓練を受けるインドネシアの若者たちの姿が映し出される。アーティストのまなざしは、国境を越えて働く人々に対する制度的管理や規律を可視化すると同時に、訓練に取り組む若者たちの熱意を捉えている。



シュビギ・ラオ
1975年ムンバイ(インド)生まれ、シンガポール在住。
映像、書籍、写真、ドローイングなど、シュビギ・ラオの多くの作品は、2014年から継続しているプロジェクト「Pulp」の一環として生み出されてきた。ラオが世界各地で行ってきた、書籍やアーカイブ、図書館への攻撃と破壊に関する調査を起点に展開するこのプロジェクトは、暴力に抗い、知の保存と再構築に力を注ぐ人々の存在に光を当て、とりわけ女性による抵抗の身振りに着目する。そのようなラオの実践は、知を破壊しようとする企てが、植民地主義や強権的な政治体制、そして搾取的な資本主義によって引き起こされる環境破壊と密接に結びついていることを示している。
最新作(シャドーステッチ)(2025)は、ラオがフィリピンで出会った研究者、コミュニティ・オーガナイザー、自主出版者たちへのインタビューが軸となっている。タイトルにもなっている「シャドーステッチ」とは、縫い目が生地の表面には現れずに陰の効果を生む刺繍の技法を指す。本作は市民による抵抗運動において、まさにシャドーステッチのように光が当てられることのない女性たちのたゆまぬ尽力と貢献を照らし出す。植民地時代から今日に至るまで続いてきた出版物に対する検閲や、書店と図館に対する排除と弾圧についての女性たちの語りの断片には、先住民による織物や、手作りのバナーの映像が織り込まれている。ラオはこれらの女性たちによる手仕事そのものが、不服従の意志を示す方法であることを強調しながら、自らの権利と周縁化された先住民のコミュニティの保護を求めて行動する彼女らの勇敢さと希望を讃えている。
シルパ・グプタ

1976年ムンバイ(インド)生まれ、同地拠点。
移動、検閲、抵抗、言語の脆さを主題にした作品を通じて、生活を形づくる制度や構造を問い直す。グローバルな同時代性に根ざしながらも、常にローカルな文脈と深く結びついたその実践は、消し去られた語りや抑圧された歴史に声を与え、しなやかな強さや連帯の兆しを静かにすくい取っている。
このサウンド・インスタレーションは、スピーカーに転用された吊り下げ型のマイクと、仄かに光を放ちながら揺れる電球によって構成されている。これらは動きながら、野原や森、街頭で歌われた抗議の歌を響かせ、世代や地域を超えて共鳴する。その中の一つ、「ベラ・チャオ」は、1940年代にイタリア・ポー渓谷で田んぼの草取りをしていた女性たちによって最初に歌われ、その後、反ファシズムのバルチザンに受け継がれ、いまではブラジルからトルコに至るまで広がる世界的なアンセムとなっている。また、パキスタンの詩人ファイズ・アフマド・ファイズ(1911-1984)が1979年に書いた「フム・デクヘンゲ(われらは見るだろう)」という詩は、国境を越えて広がり、2019年にはインドにおける学生抗議運動の希望の象徴となった。今回の展示では、1965年にベトナム戦争下の日本で生まれ、現在も歌い継がれている反戦歌「死んだ男の残したものは」(作曲:武満徹、作詞:谷川俊太郎)が新たに音され加えられた。
| 経済に追随する動向
・アン・ミー・レー
作品に現れる被写体との距離感。
国家・軍隊それを形作る個々人との揺らぎ続ける関係性を映し出している。
≫ そもそも美術館の解説文って、作り手を媒介にした端的な集合的見解、その一解釈によって作られているのだろう。
・ピナリー・サンピタック《マットと枕》
わずかな持ち物だけで新たな生活を始める移民の姿を指す。

| 追記
≫ 下記、キュレーションチームの言説らしい。これも作品か?!

≫ 告知文…。いやスローガン?!
パフォーマンスもワークショップもコレオ!?
以下、要約したつもりなのでしょう。けれど、一体全体、誰の言葉で誰に?文責の不在…。
・見ることを超えて関わり、触れ、揺れ動く体験
・身体感覚を媒介に新たな生のかたちを生み出しながら、日常を捉え直す視点を育みます
・情報共有と交流の場
≫ 昨今、企画展や映像を扱う作家が、いまだに流行のように関係性を美学化させる?べくコミュニティ形成…。そんな“共同体制”にいつもながら辟易する。なぜなら一方においての連帯は他方においての差別化を促す、そのことにあまりに無頓着過ぎ…。ある意味一時の一方的な限定は、他方において、その限界を余儀なくさせる。コレオグラフィー(振り付け)にしろ本来的に“集合”を端緒に言語化の拡張を促すべく言葉は発せられるのかもしれないが、同時に端的なる言語、その限界を寄せ付けないという側面もある。
そもそも言語構造こそ誰かによる身振り、コレオグラフィーそのものなのではないか、と。
≫ 蛇足ながら、現美のコレクションの近現代の体系的とはいえない大づかみなコンテクストはトホホ感が否めない。解説文を補足するように一般化 ⇄ 大衆化させるべく?!ところどころで選者ではないボランティアさんの解説文が目に入る。その“わかりやすさ”は客観的を集合的へ置き換え、責任回避?!とまではさすがに、どなたの誠意なのでしょう。