

『 玉山拓郎:FLOOR 』 豊田市美術館
“自分で説明できないということは、僕の意図を超えたものができたということでもある”
上述は一方で、明確に言説化されているという行為化への矛盾、二重思考を露呈させる。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/takuro-tamayama-jyunya-ishigami-interview-202503
あくまで感覚的な所作は見せかけでしかない、実際には意識下で非構成的に概念化させようとする、そんな行為化は言説によって吐露される虚構化される疑似体験でもある。
少なくとも自分は数分しか、その展示空間にいられなかった…。
FLOOR展は谷口吉生建築の床材を接点とせず、材質の接線も描かず、思考+物語の断絶、異化を意図したのであれば建築物への一点貫入という意図、その構想は構造そのものを空虚化させる非=イリュージョニズムへと向かい、分割不可能で分解不可能な全体性を眼差すことにならないか。そこは抽象度を引き上げるではなく抽象性へ逃れる術でもないか。
思考から行為への切断を美学化させるのではなく、その分断、分離を再接続し止揚することこそ脱構築になりえる のではないか。主体化を削ぐ言説は物語の発生以前に、言説そのものの非行為性、その矛盾を孕む。物理的条件に沿うだけの人工物の流入は虚構化を促す、re:designでしかないのでは?!
・作者性と距離を離さぬ「奥行きのある近さ?」
「記憶術の内容はわれわれにとって(もっとも、芸術家にとっても同様であるが)、つねに不完全なものであり、決して物語化されず、総和化されないままにとどまる。ここで作動している反復も、もはや正確には系列的な制御を意味しているのではなく、喪失に関しての発見法的な不安(あるいは不安な発見法)を意味する。無表情な立方体は、どんな美的な「表現主義」をも一貫して拒絶するが、結局、意味の鉱脈、言語の作用、イメージの輝き、情動、強度、ほとんど身体と呼べるもの、ほとんど表情と呼べるものなどを招来する何ものかを纏うことになるだろう。要するに、擬人主義が作動している。」
『われわれが見るもの、われわれを見つめるもの ー 擬人主義と非類似性』ジョルジュ・ディディ=ユベルマン/著、松浦寿夫・桑田光平・鈴木亘・陶山大一郎/訳より引用。