mitsuhiro yamagiwa

序論  

 芸術の現象

芸術における表現という現象は,芸術の回りに微妙な疑問の陰影をただよわせながら、振動しているものといえる。

共通なもの、それらの芸術の間を貫いて同じ一般性を与えるような共通のつなぎなるものが確かにあるであろうか。もちろんあるであろう。しかしこのことについていえることは、その共通の特性といらのは、それが取り出されてしまえばまったくつまらない無意味なもので、人がその芸術を理解しようとして追求した当のものではなくなるということである。

芸術の役目は物の特性を明確にすることではけっしてなく一ーそれはただむなしく科学と競うこととなろうーーむしろ、個人の心に価値あるものを作ることなのである。

すぐれたコンポジションは、生きた現実が理解されるための条件として、そのような現実への関係をいくらかはもっているであろう。

美的知覚論によれば、美的知覚の役割は、経験の基底に隠れている有機的統一をあらわにし、または状況の明瞭な秩序づけを介してそのような全体性を作り出すことによって、経験を日常的な混乱や断片化や単なる機械的状態から解放することである。

もし経験が美的性質をもつことができるとすれば、それは、普通の知覚では、もっと分散してみえる諸々の要素を感情的に統一することによって,日常あらわれるさまざまな要因を排除するのではなく、日常よりもっと広範に、それらを包含するのでなければならない。

美的性質は目的と手段の感情的統一であって,それは統合的意味をはらんだ経験全体を作る。

2章 芸術作品

 芸術作品とは基本的になにか

つまり,芸術的な対象を具体化したり、物質化しなくても、真の創造的な作品は、芸術作品を、情緒を負わされたイメージとして、内的に直観し,形成することになる。

芸術家が行なうのは、芸術対象を作ることではなく、むしろ、媒体を通して、それを美的視覚の器官に示すことである。

芸術作品とは、統一(co – herence)と含蓄(comprehensiveness)のある種の要求を満たしている一組みの外観(appearence)ということになる。

芸術作品はどこにあるのか,というものである。この問いが奇妙に見えるのは、普通この問いは、特定の作品を頭に置いて出されるからである。

◉観念論的な見方は、芸術作品は心的で精神的なものだとするもので、これは、これまでのところまちがっていた。美的対象としての芸術作品が、物理的なものからは分離していると考えるのは正しい。観念論の誤ちは、芸術作品は物理的ではないから、物質的物とも関係がないと考えたところにある。この考えが導きやすい結論は、芸術作品はただ主観的なもので、それだから、心的なもので、主観的対象という珍種だということである。

空間や時間は、芸術作品が歴史をもつための環境であり、これがあることが芸術作品の永遠の普遍と違う点であり、また、物理的な事物とも違う点である。

われわれが“物理的な対象”という言葉で意味しているのは、知覚(観察)の領域に示された物質的物で、しかも、そこからは、感覚的な“印象”を含めた感情が、無関係なものとして除外されたもののことである。

芸術の(第一次,primary)材料を生気づけることは、芸術家の仕事ではない。それを捧げる義務は職人にある。芸術家はただそれを受けて、それを材料としてではなく、媒体として使って仕事をする。

物質的物は、その企ての素材であり、物理的ではないにしても、その基礎である。そして、芸術家は、それらをいつくしみながら、それらを使い、まるで、絶対的な原理によるように、それらによって、仕事をしていく。芸術家は物理的な対象では仕事をすることができない。

芸術作品を格づけることは,一ーそれが記述的でも,解釈的でも、批判的でも一ー基本的には、美的対象に関するものではない。ということである。

芸術家が道具のうえで仕事をするとき、彼はつぎのような物を念頭に置いている。(1)媒体の要素のもつ、ある形式、またはパターン。(2)芸術作品の中で目だたせられるために、ふつうは情緒で満たされた、ある物のイメージ(イメージだけ、情緒だけのときもある)、その主題。(3)作品の内容。これは、蝶体が芸術の道具や材料の操作によって、定式化(ミターン化)されるに従って、媒体の中に形をとる。この複雑な操作は,主題を内容として示すことになるコンポジションに向かって進みながら,これらすべての要因を同時に包含する見方によって制御される。

コンポジションの様式は,注意を、主題そのものから,内容と媒体の両方に向けさせている。この媒体が、美的対象としての芸術作品の、まさに実体なのである。

◉芸術作品の形式は、材料だけでなく、媒体の要素(トーンの価値)をも配列、パターン化したものである。

芸術作品の様式は、もし、芸術家がだれかを模倣しているのでなければ、芸術家の様式である。しかし、われわれは,作品の形式が、芸術家の形式だ、とはいわない。形式は客観的な面にしか属していない。様式のほうは、主観的、客観的の区分にまたがっている。

形式は、芸術作品から孤立させることができるし、様式について何もいわずに、形式を特徴づけることもできる。

認識をこえる意味にまで拡大すれば別だが、普通の意味でなら、再現は模倣することでさえない。そして、これがそうではありえないという理由は,芸術家は、いいたいことを、媒体の中でいわなければならないことにある。媒体は、芸術家の言語であるが、それ自身の要求ももっている。
 鏡は媒体ではない。ある物をよい鏡の中に見れば、鏡を通して、その物を見ているだけである。見られたものは、したがって、純粋な主題のままである。

鏡の中には、目に見える材料や媒体がないので、そこには、内容もない。したがって芸術作品がない。なぜなら、内容として、媒体の中で形式化されるものがないからである。芸術は、鏡像をうるために、自然の前にたてられた鏡とは、最も違うものである。不透明なものを自分の力でもっている媒体の中には、鏡像はあらわれない。ガラスの中に、あるいはガラスを通して,主題(あるいは物)を見ることができるが、媒体の中や、媒体を通して、それを見ることができない。芸術では、主題が内容として媒体の中に具体化されると,主題はある種の変容を受ける。

美的な再現が歴史をもっているのは、まさに、それが、鏡の場合のように、すでにあるものを受身で反射することではないからである。それは、芸術作品の内容としてあらわれた主題をもった、構成的な再現である。そして、芸術家がこれをどう行なうかは、部分的には,彼が物をどう見るかにかかっている。

“再現”と“表現”をこのように解明していくことは、再現と表現を作品それ自体の機能的な部分にすることである。これは、芸術家が自分自身を表現するとか、自分の情緒や自分のイメージといった主題を再現する、といっているのではない。芸術家がしようと意図したことは、普通はその結果に多少の関係をもっているが、芸術作品それ自体は,こうした芸術家の最初の意図とは無関係に表現的であり、再現的なのである。

記述が、その指示対象について行なわれるべきものを含んでいるので、それは、それをこえて、何かを表示している。いうまでもなく、それは、使用すれば役にたつが、指示対象をどうするかを気にしなくても、対象それ自体の諸特徴を直接報告したものとして、やはり、記述的はではありえる。しかし、これは普通の場合ではない。

大切な点は、芸術作品でさえもが、それもすぐれたものでも、多くの人々には、例の航空写真と同じように、記述的な叙述としての役割をもち、また、役にたっているということである。そこで、これらの人々が、これとともに、芸術作品を、そうでないものと誤解してとっている、というための根拠をこれから見いだす必要がある。彼らは、芸術作品そのものの意味を得ることをしていない。私がいっているのは、ある物を記述的な叙述としてとるだけでは、たとえ、それがこのように使われるとしても、それが記述的な叙述であることの十分な条件にはならない、ということである。

あなたは、あなたが見ているものを他の人が見るのを助けるようなやり方で、ある物を叙述しているのである。あなたが叙述しているのは、ある物を特徴づける性質ではなく,ある物を生気づけるアスペクトである。私は“見る”といって、“想像する”とはいわない。

材料は、美的対象が媒体を目だたせているように、美的対象を観照に対して呈示する。“しかし、これは見ることではない!”“しかし、これは見ることである!”ヴィトゲンシュタインは,両方の意見に概念による正当化を与えることが可能であるべきだといい。そして、”どの意味で、それは見ることなのが”と問うている。

完成された芸術作品は、その中に表現的に描与された主題として、眺められる。
 その結果の芸術作品は表現的な叙述である。

芸術作品は、それが、何かを思い出させるために見られるときのように、まだ、記述的叙述としてとられることがあるかもしれない。しかし、これはまちがいである。表現的な種類の叙述の概念を不適当なままにして作業している芸術哲学だと、このまちがいが,奇妙な状態を生む。

芸術作品のあるものは、何らかの意味での、“likeness”である。

美的対象としての芸術作品には、記述約叙述として働くものはない、という事実を考えれば、芸術作品が行なうような再現は、非記述的な種類であるはずだ。

叙述は、美的な様態では、表現的か形式的である。一般に,表現的な様態は、表現の媒体において叙述が意味するものを呈示する。それは、さらに、再現的な様態と、非再現的な様態に分かれる。注意すべきは、ここでは、再現でさえも表現の様態であることである。芸術作品が再現的であるのは、それが、主題を表現しているイメージ内容を呈示しており、主題そのものの諸特性と、作品の設計の中に配列された材料の諸特性との間に、認められる類似がすでにある場合である。この類似は、美的経験では見られても、注意されないが、これは、元のもの(主題)が、作品の内容として媒体の中に描写されている、と見る動機にはなる。しかし、類似は、観照の対象には属していない。一方,芸術作品が非再現的になるのは,主題を視覚的あるいは聴覚的に媒体の中に表現しているイメージ内容が、上で指摘したような類以には、それほどはっきりは依存してなくて、イメージが情緒をはっきり示している場合である。

再現的表現と非再現的表現とは、ともに、表現的叙述であるが、これらの間の違いを示す例は、両極端の間の全範囲に並べることができる。そして、中間の例は、両方の種類の表現の条件を満たしている。

一般的にいえば、造形芸術(建築は除く)は、材料と主題の類似のおかげで、イメージ内容の力によって、主題を表現するので、再現に関しては、他の芸術よりも大きな能力をもっている。

芸術作品は、どんな種類のものであれ、内容を欠いていれば、形式的である。内容は作品の媒体の中に表現された主題であるから、内容がなければ、それはまた主題ももたないだろう。そうはいっても,この作品は、作品のコンポジションの様式を主要な呈示にするように抽象的なやり方で定式化されるので、媒体はもつだろう。コンポジションの方法が、形式的な芸術作品の中に示されていて、これが内容の代わりをしているのである。このようにして並べられた媒体の要素が、作品の美的空間を決定し、示すのだが、これが作品の中心のすべてである。これは、最も単純な意味での芸術作品である。モーリス・グロッサーは、“言葉の最も単純な意味における絵画とは、空間を満たす何物かである”、といっている。空間とは、もちろん、美的空間である。同じことが、形式の諸要素が、コンポジションの場を占有しているような芸術作品にもあてはまる。

定義は、結局、批評の論理の問題なのである。

3章 いろいろな芸術

“美術”は、内容によって媒体に生命を吹きこむために、まず第一に、可塑性のある材料を操作することにたずさわる。

芸術家が抽象を行えば、彼が材料よりも形式を目だたせるのが普通である。抽象的なコンポジションは、材料や表現性のためよりも、形式のためである。

絵の空間は、美的に教育されなかった人の想像に、現実にはないものまで、その中に、読みこませてしまう。

ランガー(Suzanne Langer)は、芸術作品の形式は感情や情緒を表現し、その形式は感情の形式であると論じている。論理的な方法によってではないが、芸術家、とくに音楽芸術家は,情緒の本質が,そのさまざまな形式を直観的に把握することにある、ということを知っている。芸術家が芸術シンボルのもつ表象上の直接性を使って示すのは、これらの形式であり、それは基本的には、コンポジションの表現形式といえる。

コンポジションの中にある感情を分節化することは、それを客観化することであり、したがって、それを美的な観照に対する作品の表現形式に転換することである。

詩の媒体は、言語の静態からみた言語の音色を含んでいるだけでなく、すでに指摘した感情、イメージ、態度など、日常的な使用の動態に伴うものも含んでいる。

詩人は、媒体と内容に新しい価値をあらわすように、ふだんと違う組み合わせで言語を並列して,表現的な叙述を行なう。これは、画家が、観照の様態で知覚できない人には、不調和が無意味に見えるような創造的な並列法を使って、絵具を塗られた材料の側からは媒体の潜在的な可能性を,主題の側からは内容の潜在的な可能性を、現実のものにするのに似ている。

4章 芸術について語る論理

 芸術の記述

芸術について語るには論理的に違ったきわめてさまざまな様態がある。ふつう認められているこの種の議論を一般的に分類すれば、記述(description), 解釈(interpretation),評価(evaluation)という三つの様態がある。人はあまりに無理をしすぎなければ、芸術について大体、これらの様態のうちのどれかを、あるときは重複させたり、またあるときはどちらともつかないような使い方をして,語ることができる。

芸術作品とは何か。この問いは一般的記述を求めるものとも、また定義を求めるものとも解することができる。いずれの解釈をとるにせよ、この問いに答えようとすれば、芸術という概念がいかにとらえがたいものであるかがわかる。私がこの問題をこれまで避けてきたのは、答えとなりうるようなものはすべて、“芸術”という用語がどのように使われるかを注意深く調べないと明確になりえないからであった。

◉(偉大な)芸術作品であるということが、どうしてある特定の人の作品であることに依存したり、また、そうでなくても、単にそれがある特定の人の作品であると思われるということに依存するのかというような問題の考察を強くおし進めることによって、最小限ではあるが芸術という概念が検討されるのだといってよいであろう。

“芸術”の定義とは大体において、芸術作品の形式、感情または表現性を特徴づけたり賞讃したりする言語活動となる。これらの言語活動は、本質をとらえる(記述する)かのような一般的定義の仮装をしてはいるけれども。この説得的定義の考えは、ある種の用語は情緒的意味をもつものであるということを考えたスティーブンソン(Charles Stevenson)によっている。この考え方によれば、そのような用語は、それが適用されるものに対して、人を是認や否認の直接的感情に駆りたてる。“芸術”という言葉はそのような意味の香りをもつものである。

それゆえに“芸術”の用法を論理的に分析すれば、明白に、かつ客観的に、すべての芸術作品の中にあると推定される本質的性質または、それの組み合わせを、その言葉が一般的に代表するかのように考えるのは不条理であることがわかる。このような取り扱いが不条理であるということは、“芸術”の適用にはいかなる必要十分条件もありえないということを見いだせば、はっきりすることである。

リアリズムとか感情とか形式を、ある物を芸術作品と認めるよい“客観的”理由とするものは、その時代の一定の文化的エートスであるだろう。そのような関係の枠内ではじめて、これらの特徴のあるものが一般的基準となるのであろう。そして前衛的な芸術家や批評家が、もし成功すれば、きっと新しい時代のさきがけとなるであろう新しさを強調するため、自分たちとは無縁な美的エートスを意識的に無視しようとするところに、このことはよくあらわれている。現代芸術を流れる精神は、”芸術”が永遠の相のもとでは、また永遠の本質という観点からは定義されえないという上述の新しい考えに影響され、また逆にそれに影響を与えているよう思える。したがってこのような新しい考え方によれば、現代芸術は完全な、人を戸惑わせさえする創造の自由を有するが、標準的な伝統的芸術形式に対してはそう関心を示さないのである。このようなわけであるから、いま一つの訴えが、ある物を芸術として認知するとときも含んで、美的判断のためのよい理由とされるべきであれば、そのような理由は非常に特殊なるのであるに違いないし、必要十分条件としてはけっして一般に適用されえないのである。

芸術の基本的データですら、芸術作品をも含めて、物をしかるべき見方で見ることのできる者に対してしかとらえられないということである。私はこのような見方を“観察”と区別して”観照”とよんだ。しかしこの問題点も、決定的重要性はもつが、芸術について語る論理のテーマにもっと関係の深いいま一つのテーマに比べれば、退屈なものである。このいま一つのテーマとは、芸術の記述的議論のレヴェルでの、言葉の表現的叙述という観念である。
一言でいえば、芸術の記述ですら表現的叙述の一形式である。

人は、主観的にまたは彼の心の中にではなく、客観的対象として知覚される物質的物の媒体の中に、印象またはイメージをもつ。だからこの場合、それはまさしく彼のイメージなのではない。このような場合、幾人かの人が、同じ物質的物を観照し、それを美的対象(したがって)それを美的空間における何らかの主題と見ることによって、原理的には同じイメージをもっことができよう。このような場合、人は主観的経験の“自由な”“浮動的”印象とは区別された “客観的印象”について正当に語ることすらできるであろう。

原理的にみて、物は単なる印象とは違った仕方であらわされるであろう。芸術作品で、その印象がいかに客観的に具体化されるようなことがあろうとも。こうして印象叙述の論理は物の叙述の論理とは違う。しかしこの違いは、印象が伝達不可能であるということをもたらすものと解されてはならない。このような誤った結論へ陥りやすいのは、人が物の印象の議論をするのに、物の議論のモデルに固執するときだけである。 ◉芸術について語るということは,表現的叙述の論理をとる印象の議論に属するのである。

観照的に知覚し、そのいきいきとした働きの中でこれらの用語を使うことを学べばー一見ることと語ることを同時に発展させ育成する能力を身につければー一人は芸術哲学の言語の基本用語、すなわち媒体、内容、形式をも理解しうるようになる。これらは、かなり一般的ではあるが、言語による表現的叙述としての記述的用語である。形式は材料の形だけでなく、媒体や内容の秩序でもある。内容は主題だけではないし、また媒体は材料に限らない。このような用語を理解するということは、芸術作品に関する表現的叙述での“ダイナミック”とか“バランスがいい”とか“暖かい”というような用語の使い方を知っていることにほかならない。

人はややもすれば、芸術の記述的議論での用語に頼るとき,上述のバランスがいいとかダイナミックとかの知覚を文字どおり本来的なものとみなし、自分の議論が比喩的になってしまえば、厳密には、説明のためそのような知覚に訴えることはもはやできないものと思うようになる。

芸術の定義や一般的記述を与えようとする全ては無理であるということをほのめかしなから、“芸術”というような用語が非記述的用法をもつことを示唆した。それから私は、特殊な記述のために許される、独自の論理をもった表現的叙述という概念を示唆した。最後に私は、芸術作品の一般的定義のようなもので、この議論をしめくくることにする。◉芸術作品とは、美的対象として観照のために作り出された物質的物である。このこと自体はどちらかといえば空虚な概念であるが、芸術作品の材料、媒体、内容、形式、主題に関するこれまでの取り扱いや、美的に適切な、物の知覚様態である観照に関するこれまでの説明と結びつくとき、この空虚な概念は、ある実体をもつにいたる。しかしこれらの諸要素の一部が、特定の作品の中で省略されたり、減らされるのに応じて、”芸術作品”という一般的用語の適用はかなり疑問になるのである。それは私の要求によってそうなるのではけっしてない。人々は芸術家自身も含めて、だんだん確信がもてなくなる。

そのうえ、このような◉観照的知覚の客観的対象としての芸術作品という概念は、芸術作品は“命題”であるとか、内的“直観”であるとか、さらには“美的対象”であるとかいう別の概念に対しても利点をもっている。われわれは確かにある芸術作品を壁にかけるが、美的対象や直観や命題を壁にかけはしない。根本的にみて、芸術作品は一ー詩すらも一ーさまざまな種類の物質的物である(私は“物理的対象”とはいわなかった)。こうして、私の定義はよい芸術作品にも悪い芸術作品にも通用する。

芸術の解釈


 ◉現実には、記述と解釈と評価は生きた芸術の議論の中で相互に絡みあっており、それらを切り離すのは徴妙なことである。しかし生きた言語の中に実際にある真の論理的差異という点に着目して,有益な区別をたてることは芸術哲学にとって可能である。そこでわれわれは根底となる記述をとらえて説明し、つぎに、その上のレヴェルにある解釈を、そして頂点にある評価を基礎づけよう。こうして◉美的経験の基礎とその記述から出発して、芸術に関する解釈的議論の論理の検討がつぎにくる。そして最後に芸術作品におけるその定式化の評価的考察にまで到達することを目ざすわけである。(形而上学的にみれば、おそらく解釈が頂点におかれ、そこで評価の基準を設けたり提供したりするのであるが、論理的観点からみれば、批評的価値判断が最も精妙である。なんとなればその論理は最もとらえがたいから。そこで言語哲学者は、そのような評価を議論における用語の記述、解釈、評価という階層的秩序(hierarchy)の頂点に位すると考えるのである。)
 ◉人は一方では芸術一設を解釈しようという要求と、他方では特殊の芸術作品を解釈しようという要求とを区別せねばならない。実際では両者はしばしば一つになっているが。前者は芸術作品だけでな<、美的経験やその含蓄のすべてについての問題を含んでいる。このことを強調すれば、もちろん、一般思弁的芸術哲学となり、その熱心な支持者は、すべての芸術作品を、普遍的原理の光の下で解釈しょうとする。

ユンクはフロイドの無意識の考えを、あまりに個人的で、あまりに幼児経験に決定づけられているものとして拒む。そしてその代わりに、人類の“集団的無意識”、すなわち芸術家の意識の表面にでてきて彼の作品の中にシンボルとしてあらわれてくる”原始型(arche-type)としてのイメージ*の深い貯蔵所というものを考える。これは集団的表現の深さと神秘的力をよく説明している。

芸術に関するこのような解釈的議論の論理とは何なのか。論理実証主義者は、このような議論には、可能な検証や確認の手続きというものがないから、それらはすべて形而上学的であるという。彼らのいうところによれば、人はそのような紛らわしい言語を使って、単に情緒を表出しているにすぎないのである。一ーなぜ紛らわしいかといえば,言語は詩と違って、真の主張をもった議論をなすと思われているからである。こうして芸術に関するこのような表現的用法は何かを叙述するものではなく、また文法的には平叙文(declarative sentence)の型をとってはいるが、叫びや渋面のように、全然論理をもっていないとされるのである。

われわれはすでに,物の見方(経験の様態)が、随伴する表現の様態や話し方(適合した“言語”によっていかに助けられ、また透徹した鋭いものとなるかをよく知った。この言語の修飾力はある程度までは、経験の知覚的レヴェルにすら影響を及ぼすものである(ワイスマン)。それは物がどのように見えるかという、その物の見え方を修飾することができ、そのためそこでは、物は物理的対象としては見えなくなり、したがって物を見るということも観察である必要はなくなるのである。(しかし、物理的対象の観察にすらカテゴリーによるアスペクションと科学の言話は存在する。)

構成的形而上学はそれ自身が一つの言語的芸術であり、それの創造は、この形而上学が芸術の解釈となるときの主題となるものであることが、他の芸術の例から示唆されるのである。

ある解釈は別の解釈よりももっと“真実に鳴り響く”であろうし、またその理論の中で性格づけられ変形される主題の特性をみるとき、観照に対して、それら二つの解釈は同じ適切さをもっこともあろう。

現象学的言語を理解するには、人はどうしても、偉大なるヴィジョンによって物を見るのではなく、非観察的にしかもまた、非日常的に物を見ることができねばならない。このような議論の論理は、純粋な、特殊性をこえた記述の論理となり、ある点では表現的叙述の論理となるのである。

意味の問題というのは、主題との関係が欠如したり、まったく稀薄で重要性をもたないような場合でも,有意義に提起できることがしばしばあるものである。それだけでなく、芸術作品の意味に関する多くの議論は、意味が芸術作品の中に存在し、また芸術作品にとって必要なことを示唆している。一口にいって,解釈にあたって、あなたは作品を超えて作品の外側にある物をとらえようとしてはならない。もちろん、主題が何であるかを知れば、意味をとらえる助けにはなろう。しかしそのときでさえも、あなたがとらえるのは、コンポジションを主題と見たときの作品の内容であり、また作品に主題がない場合は、作品に必要なある他の要素であるだろう。そこで私は、われわれは芸術作品の中に何を求むべきかという一般的な形で、意味の問題をたてたいのである。

意味の問題とそれに答えようとする試みは、往々にして芸術家の意図を特徴づけるものとなってきた。事実、いくつかの理論の中には、芸術家の意図の陳述をもって、この問題への解答とみなしたものさえある。しかしこのような仮定は批判されて、◉意図理論の誤謬(intentionalist fallacy)とよばれている。それは、芸術家が芸術作品として具体化しようと意図したところのものを見いだすときはじめて、その芸術作品の意味をとらえうると考える誤りである。◉人はいおうと意図しなかったことをいう場合があるように、芸術家でもそのようなことは起こるであろう。それだけではない、芸術家の作品が“いっている”ところと。彼がいわんと意図するところの間に分裂があることがはっきりわかっても、彼はその芸術の材料の支配者でないとすれば、自分の意図にそうように作品を修正することはできないであろう。さらに、彼は作品によって自分の意図が適切に具体化されたと考えるかもしれないが、客観的批評によって、そうではないということを教えられまた、また彼が気づかなかったことを“言い”、彼が心に描いていたものを否定するような新奇なコンポジションによって要素の修正を行なえば、もっと適切な定式化もおそらく可能であろうことを教えられるかもしれないのである。このようなことはすべて、言語においても起こりうるであろう。

それゆえに意味は、作品の主題であるかのように装う場合も、芸術家の意図であるかのように装う場合も、美的対象として観照される芸術作品の外側にあることはないけれども、これらの主題や意図を知ることは、往々、意味をとらえる助けになる。これらは、作品につけられた適当な表題と同じように,人が作品の中にあるものをとらえるのを助けようとする。
この点でわれわれは、芸術解釈法に関する二つの思想の流れの間の論争を仲裁するのに、単純に一方を偏重することはしない。解釈の過程で、主題、芸術家の意図、時代や個人の歴史的考証のような外的考察を重視する者を“外在論者”(externalist)とよぼう。これに対して”内在論者”とは、意味も含めて芸術作品の自律性を強調し、解釈がコンポジションそのものの範囲内で行なわれることを要求する者をさす。

芸術作品とは主としてある物の表現的叙述のためのものであるか、またそうでない場合は、そこで観照されるある別の要因のためのものであるということを思いだすであろう。◉第一の場合、意味の問題は主として作品の内容に関係し、第二の場合は主として媒体に関係することをわれわれはあとで知るであろう。いずれの場合も、作品の外側に何らかの物があって、それに対するしかるべき考慮が必要となろう。もちろんこのような考慮はすべて、コンポジションの中にあるものをとらえることによってはじめて完全なものとなるのであるが。
 ◉もし内容が意味と考えられ,これが問題になるときは、この問題に答えるためには、主題やテーマのような作品と関係するところのものが、考慮されねばならない。これらのものは作品の外側にある。そして主題を確かめるには、芸術家の意図、彼がこの芸術の手段を手にしたとき、どんな主人公を念頭に描いていたかを知ると有益であろう。さらに歴史的、心理学的考察を働かせれば、主人公がその時代をどのように見たか、またいろいろの媒体が主人公を分節的に構成するのにどのように役だったか一ー象徴主義、その時代の手法、およびその他の要素一ーに照明が投ぜられるであろう。これらすべてを調べることによって、作品の表題の働きをする何かがえられるだろうし、また、芸術家自身がつけた表題の正しい解釈が可能になるだろう。このような情報に助けられて、作品の解釈者は最後の仕上げをする観照によってその作品の内容を理解するようになる。主題ーー情緒、気分、イメージ、状況ーーはいまや、作品の内在的なアスペクト、すなわち作品の内容として、その作品を生気づけるであるう。作品がこのような意味をもつということは、その作品が、人生やそこで遭遇するものと何らかの結合をもつことである。この次元での解釈は美的ヴィジョンに対して、そのような結合関係を開示し、外的人生の価値を、コンポジションの内的内容として具体化するのに役だつ。これらのことをすべてよく知っている仲裁者なら、つぎのような事実を考慮して、同じ一つの作品についてもいろいろ違った解釈があることに対して、寛大でなければならないということを忘れないであろう。すなわち当の画家本人すらもが、そのいくつかのアスペクトには盲目であったかもしれないような、予期しない違った表現で絵を見るときのように、ある限界はあるが、同じ作品でも、それが違った物に見えることがあるという事実がそれである。

歴史的解釈もフロイド的解釈も、違ったテーマないし主題の観点から、それぞれその戯曲を生気づけている。◉奇妙に聞こえるかもしれないが別の見方をすれば、逆に、主題が内容として、作品の中で特殊な生気づけと生命を獲得するのだともいうことができるであろう。この際、内容は主題の意味と考えられる。この意味で、美的ヴィジョンは芸術の内部に日常的生活状況の意味を見いだすのである。芸術の意味をその外側の人生の状況の中に見いだす代わりに、逆にこのようなやり方で意味をとらえる機会をだれがもたなかったであろうか。

人は作品をある物”として”見るというよりは、むしろ端的に作品“の中に”内容とは別の何かを、つまり表現的叙述を伴わない意味としての何かを見ることができる。このような輪郭のはっきりした事例は、抽象的,形式的,もしくは非対象的な芸術に見いだされる。

媒体が最も重要なものとしてそこにあるのに、その解釈は、美的対象としての作品に内在する媒体を開示させるため、わざわざ美的対象を超えて、その外側にある材料に向かおうとする。そしてこのような芸術の議論の論理は表現的叙述の論理となり、それは、多くの材料表示ーーさらに材料処理一ーを含むのである。

一方では、媒体の見聞きによる理解を助けうるような語りをしながら、それはちょうど、内容が示さるべき場合に、解釈者が外在的な主題について表現的に語るのと同じである。このようにして人は、ともかくも、この種の芸術の意味をとらえるであるう。彼がその意味をとらえたあとで、それを面白いとか、何らかのよさがあるとか思うかどうかは別間題で、それはつぎの最後の考察の論題となる。しかしながらここで、気紛れでない(これもまた隠された価値判断である)大多数の芸術作品では、形式、リズム、感覚的調和のような媒体固有の性質が、内容固有の性質と融合したり、内容そのものになってしまうということをわれわれは思いだそう。それゆえに、われわれは二通りの“意味”の区別を2種類の芸術作品の区別と同心であるかのように取り違えてはならない。

芸術の評価

われわれが遭遇するのは、一体どのような種類の一致、不一致であり、またそれはどのような理由に基づくものなのであろうか。このような論争はいかにして仲裁さるべきなのだろうか。

人はここで示唆されているほど、この種の一致が実際にそう必要なわけではない。そして芸術家や芸術の理解も、そのような究極的一致に向かうという仮定にたっているのではない。それでもわれわれはお互いに評価が違えば、それらの違った評価を支持するさまざまな理由をあげる。そしてそのため,客観性とか優秀さというある種の理想が仮定されるのである。思うにこの理想は芸術という概念の中にしっかり根をおろしているところのものであるが、つねに開いたテクスチュアをもち、その場の特殊性に応じて敬称的にまたは推賞的に使われるために、やはり概念、それも規範的力をもった概念である。しかしこの概念はけっしてその場その場での個人の趣味を示す道具ではけっしてないのである。この小さい書物の中で、私はその翼を切りとることなしに、このような概念としての,ペガサス*に馬具をつけて利用しようとしてきた。その到達点はオルテガのつぎのような文句にも比べられるような理想である。すなわち、最も偉大な芸術は一方では材料の点から、他方では主題の点から同時に形式的に表現力に富み、相互に変容しながら正当性をわかちあい、コンポジションの内容によって互いに他方をひきたたせる。この集約された論旨を理解する人は、だれでもこの小さな書物での芸術哲学の鍵を手にするであろう。

低次の裁定は、知覚する力を要求する一種の規範的記述を構成する。これが満足されるとき、あなたはなぜ私が大きいほうの複製は暗すぎるというかを見るであろう。そしてこの判断が“そのほうが悪い”というより高次の評価を支えることになる。後者は見ることによってずばりと直接的に決定されることはない。というのは“悪い”は“色が暗すぎる”と異なって、だいいち記述的用部では全然ないから。それは実演的意味をもち、このような意味をあらわす推賞的判断は、低次の規範的記述(色が暗すぎる)が真なる場合に、はじめて正当化されるのである。

内容を特徴づけるものは、”表現的”(expressive),”洞察にとんだ”(insighttul) “開示的”(evealing),”深い”(profound)といった用語である。これらも規範的記述の用語として働くことがあり、観照的見方の能力を必要とする。しかしこちらのほうは、コンポジションを主題として経験するという形でそうなのである。そしてこのことは結局、実生活の状況下で物が何らかの形で知覚されるということを前提している。あなたは世界に対する日常的関係の中で十分に印象をうける場合にだけ、芸術作品の内容を完全にとらえるであるう。もしそうでなければ、あなたは人間の経験に関する啓発的な”批判”(comment)を求めて、自然に芸術へと向かうようにはならないであろう。そして偶然にあなたが接するような芸術作品は、何かを思いおこさせるだけのものとなり、表現的叙述としての役にはたたないであろう。あなたはそこでその意味をとらえそこない、その中にあるものを見のがすであろう。

上述の純粋主義者も非純粋主義者も、みずから偉大な芸術と思うものにひいきをしながら、このような好意的選択の暖かい光の中で、芸術を説得的に“定義”しようとするのである。われわれはこのようなやり方の長所と欠陥を研究してきたわけである。

それが芸術作品であるというのは、単に物質的物一ーもちろん物理的対象ではないーーとしてであるか、それとも美的対象としてであるか。または、厳密にいえば、評価されている作品の実演(performance)としてであるか。それとも、作品がその外側にある何物かと関係して所有している固有の性質としてなのであるか。

アスペクト(Aspect)は「側面、様子、観点」

スペクトを特徴づける美的対象や実演や解釈は、まだ芸術作品の価値判断の最後的考察ではない。しかしそれらは、ある意味では本質的なものである。というのは◉芸術作品は美的対象として、観照のために設計された物質的物であるから。それは物質的物そのものなのではない。それは、美的な観点から、アスペクトによる生気づけのきっかけとなりうるように設計されるのである。そこで、◉芸術作品は観照に対して、媒体という第一次形式で材料の精神を出現させ、つぎに内容という第二形式で主題の精神を出現させ、その結果、作品の第三次形式すなわち様式によってこれらを全体的に融合させるのである。それゆえにわれわれは、芸術作品のこのような働きの可能性の大きさに応じてそれを偉大であると判断するのである。ではそのようなバランスや融合がいつ達成されるのかを,われわれはどのようにして知ったらよいのであろうか。◉この問題の決定には、人間としての人間にとって永遠に重要性をもつテーマまたは主題といった、芸術外の哲学的考察と並んで、芸術作品を見る教育された視が基本的に必要である。

そして英語は現在,驚くほど頽廃はしているが、このような適合性を最も多くもっているのである。それゆえ、全芸術のうちで可能的に最も偉大とされる文芸の中でも、とくに英語で書かれた芸術作品は強味をもつといえる。

『芸術の哲学 – 哲学の世界 10 』ヴァージル・C・オルドリッチ/著、川野洋・徳丸吉彦/共訳、 1968年刊行