第2章 理論の眼差しのもとで
理論はプロパガンダとして、もしくはむしろ宣伝として機能する。理論家は美術作品が制作された後にやってきて、驚き、疑いを抱く鑑賞者に対してこの美術作品について説明する。知っての通り、多くの芸術家は自分の芸術の理論的解釈について複雑な感情を抱いている。彼らは自分の作品を紹介し根拠づけるという点で理論家に感謝していはいるものの、芸術家にとってはしばしばあまりに狭く、教条的で、脅迫的でさえあるように思われる理論的パースペクティヴのもとで、自分の美術が公衆に紹介されているという事実に苛立ってもいる。
このようにして、理論的言説は宣伝には逆効果の形式となることがおのずから明らかになる。鑑賞者を幅広くする代わりに狭める。
こうして芸術の理論的説明の必要性は決定的に過去のものであるように思われる。
近代においては、芸術を制作することはこのかつての世代が行ったことに反抗することを意味する。
芸術作品を作り始めるためには何が芸術なのかを説明する理論が必要なのである。そのような理論によって芸術家は自分の芸術作品を普遍化させ、グローバル化させることが可能になる。理論にたよることで、芸術家たちの文化的アイデンティティから、つまり彼らの芸術のローカルで物珍しいものとしてのみ受容される危険から自由になることがてきる。
ここでは、理論つまり理論的な解釈の言説は、芸術の後に到来する代わりに芸術に先んじる。
もしわれわれが、あらゆる活動がその活動は何かという理論的説明とともに始まらなければならない時代に生きているとすれば、われわれは芸術の終焉の後を生きているという結論を引き出すことができる。なぜならば、芸術は伝統的に理由、合理性、論理に対立し、非理性的で感情的で理論的には予測できず説明できないものの領域を扱うと言われてきたからである。
プラトンにとって世界を理解することは世界の真実を手に入れることであり、想像ではなく、むしろ理性に従わなければならない。
こうして哲学者は、現象の外部の世界から彼自身の考えの内部へと転換すること、この思考を探求し、思考の過程の論理をそのようなものてして分析することを期待された。
(真理への愛として理解される)哲学と(偽りとイリュージョンの制作と解釈される)芸術の対立は、「西欧」文化の歴史全体について教えてくれる。芸術に対する否定的態度もまた、芸術と信仰の間の伝統的な同盟によって保たれている。
ヘーゲルが一八ニ〇年に芸術は過去のものであると言ったとき、芸術は(宗教的)真理の手段であるのをやめたということを意味したのだ。
哲学はわれわれに宗教および芸術を信じないことを教え、その代わりにわれわれの考える能力を信じることを教えた。啓蒙時代の人間は、自分自身のみ、自分自身の理性の証拠のみを信じて芸術を見下した。
しかし近現代の批判理論は、理性、合理性、そして伝統的な論理に対する批判以外の何ものでもない。
理論は哲学者が自己省察には使えない視点を通して、哲学者の生きている身体を見る。実際、われわれはわれわれ自身の身体、その世界における位置、生理学的および化学的でもあるが、また経済学的、性的等でもある身体の内外で生じる物質的および化学的でもあるが、また経済学的、生物学的、性的等でもある身体の内外で生じる物質的なプロセスを見ることができない。これはわれわれが「おのれ自身を知れ」という哲学的格言の精神における自己省察を真に実践することができないことを意味している。
空間と時間における私の実存の限界を見つけるためには、私には「他者」の眼差しが必要である。私は他者の眼の中に自分の死を読み取る。ラカンが「他者」の眼は常に悪の眼だと言い、サルトルが「地獄とは他の人々である」と言うのはこれゆえである。他者の世俗の眼差しを通してのみ、私は考え、感じることを見出すだけではなく、生まれ、生き、そして死ぬことを見出すのだ。
私がどのように生きているかを、私は他者に尋ねなければならない。そしてこれは、実際に私は何を考えているのかも他者に尋ねなければならないことを意味する。
生きることとは(死んだものではなく)生きているものとして他者の視線にさらされることである。
まさにこうして、私が自分自身を知っているよりも、理論が私のことをよく知ることになる。
もし私が動くのをやめれば、私は理論の射程から外れる。そして理論はそれを好まない。あらゆる世俗的な理想主義後の理論は行動を求める。あらゆる批判理論は緊急事態、そして非常事態でさえ創り出す。
『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳