mitsuhiro yamagiwa

〈私〉がそこに現に存在することとしてのことば

 語ることとしての語ることの有する力が、遂行されるべきことを遂行するのである。ことばとは、自己としての純粋な自己こそがそこに存在することであるからだ。

〈私〉が〔ことばにおいて〕現象することが、〔現象することであると同時に〕おなじく直接的に外化されることであり、この〈私〉が消えさってゆくことであって、〈私〉はことばを口に出し、聞きとられている。〈私〉とは一箇の伝染であり、伝染してゆくことで〈わたし〉はただちに、〈私〉がそれに対して現に存在するひとびととひとつであるありかたへ移行し、かくて普遍的な自己意識となる。ーー〈私〉は聞きとられている。〔響くという〕この〔〈私〉にとって〕他であることが、自身のうちに取り返される。このことこそが、〈私〉が現にそこに存在することであり、つまり自己を意識した〈いま〉であるということである。〈いま〉とは、それが「そこ」にあるとき「そこ」には存在せず、そのように消えさってゆくことをつうじて「そこ」にあるものなのだ。この消失は、したがってそれ自身ただちに〈私〉が持続することである。消失することで〈私〉は、じぶんについて自身の知をうることになる。〈私〉がみずからを知るとは、他の「自己」へと移行して、聞きとられているものとして知ることなのである。

信仰と純粋な洞察

純粋な意識と現実的な意識

 この非現実的な世界の内容となるのは純粋に思考されたことがらであり、思考がその世界の絶対的な境位となっている。

 むしろ思考されたものは意識に対して、表象という形式で存在しているのだ。

 現実といわれているものは、意識自身の現実からの逃避だからである。

疎遠になったものとしての純粋意識

 さしあたりこの純粋意識は現実の世界だけを、じぶんに対立するものとして有しているかに思える。しかし純粋意識がこの〔教養の〕世界からの逃避であって、それゆえ〔この世界との〕対立によって規定されているかぎり、純粋意識はこの現実の世界をみずから自身そなえていることになる。純粋意識は、したがって本質的にいって、じぶん自身においてみすがらと疎遠になっているのだ。だから信仰は、ただたんに純粋意識の一側面をかたちづくっているにすぎない。

 絶対的な区別とはすなわち、ただちにいかなる区別でもないということなのである。

 確信とはつまり純粋に思考することであって、その思考か絶対的な概念として、みずからが否定的なものであることの威力をともなって現に存在しているわけである。

 つまり対象性の有している意義が、たんに否定的なものにすぎない内容であり、みずからを廃棄し、自己のうちへと回帰してゆく内容であるというものとなっている。すなわちひとり自己のみずからにとってほんらい対象なのであって、いいかえれば対象が真理を有するのは、ひとえにそれが「自己」という形式を備えている場合にかぎられるのである。

信仰する意識にとっての現実と「内なるもの」

 一方の感覚的な現実はしかし、他方の感覚的現実に対して無関心でありつづけるほかはなく、彼岸が手にすることになる規定といえば、それはただ時空から遠くへへだたってなお存続するものであるというにとどまる。ーーいっぽう概念というものは、じぶん自身に現在する、精神の現実のことである。そうした概念は、信仰する意識のなかでは内なるものであるにとどまっている。この内なるものこそがいっさいであり、すべてにはたらきかけるものであるにもかかわらず、それじしん立ちあらわれることがない。

『精神現象学 下 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。