第5章 人称性
パフォーマティブ理性批判
5-4 イメージと常識ーー〈持つ私〉と〈在る私〉
ベルクソンはイメージという概念を導入するにあたって哲学的な立場をめぐる論争について無知な、新たな「白痴」として〈私〉を設定する。
イメージが「内在平面」であるのは、イメージはその外を必要としないからであると同時に、それがイメージへの〈私〉の埋め込みを実現するからだ。「意識「への」内在があるではなく、反対に意識が内在にある」。
『物質と記憶』が常識から始まるのは、まさしく常識において、われわれは知覚対象の実在を素朴に信じているからだ。「常識にとって、対象はそれ自体で存在しており、同時に、対象はそれ自体において、われわれが認知するとおりに彩られている」とベルクソンは述べているが、これは観念論が対象を主観的な表象へと還元したこと、そして実在論が対象から量的な延長以外のものを取り去り、対象と知覚表象とのあいだに本性上の差異を持ち込んだことへの批判に対応している。知覚される対象は、〈私〉とは独立した実在であり(知覚されずに存在することができ)、〈私〉が感覚する色彩や抵抗をそれ自体において備えている(対象とその知覚には本性上の差異はない)という考えはまぎれもなく常識的であり、この意味で常識の導入は批判的な意味をもっていると言えるだろう。
しかし別の箇所では、同じ「常識」という語によって、まったく異なる事態が示されている。
(…)われわれとしてはたんに、常識がもつ素朴な確信へと立ちもどっているにすぎない。われわれの誰もが初めは信じていたところによれば、われわれがその対象そのもののうちに入りこんで、対象のうちでそれを知覚するのであって、みずからのうちでそれを知覚しているわけではない。
〈在る私〉はつねに「私はそれである」と言い、いかなるものも対象化することがなく、他者なき世界に住んでいる。
ベルクソンはふたつの〈私〉の関係性を、イメージの「縮減」によって〈在る私〉から〈持つ私〉が、つまり純粋知覚から経験的な知覚が導き出されると説明する。これが無媒介的なものから有用なものへとつながる「線」だ。縮減によるイメージの選択とは、人間の可視光線や可聴領域が限定されているように、身体が現実的に受けている作用を部分的捨象することによって意識的な知覚を発生することだ。しかしここにはひとつの論理的な困難があるように思われる。
これはつまり、一方ではひとつの〈在る私〉からひとつの〈持つ私〉への移行が連続的であること、そこに一本の「線」があることを看取する〈私〉の持ち場を、そして他方では、端的な〈非 – 私〉という境位としてイメージ=物質の持ち場を要請するということだ。このようなことが可能になる平面は、第三の〈私〉によって開設されているように思われる。
5-5〈呼ぶ私〉へ
私が物質と呼ぶものはイメージの総体であり、私が物質についての知覚と呼ぶのは、この同じイメージが、特定のイメージ、つまり私の身体の可能な行動に関連づけられたものである。
「手術」によって消える「私の知覚」と術後に残存する「イメージの総体」。
しかしここには第三の〈私〉、つまり〈呼ぶ私〉が現れている。ふたつのシステムの存在は、〈呼ぶ私〉による「手術」によって導かれる。この手術室にこそ、〈持つ私〉の経験的な知覚とその身体の物質性、物質と知覚の連続性、そしてふたつのシステムが同時に配置されているのではないだろうか。
30 岡嶋「ベルクソンにおける知覚の諸相」
われわれの議論は彼の整理にしたがえば「没入」あるいは「拡散」としての〈在る私〉と「俯瞰」としての〈呼ぶ私〉、そして一般的な意味で「通常」の知覚経験である〈持つ私〉について、テクスト内でこれらの〈私〉がいかなる関係のもとであるか、そしてその関係がいかにしてイメージ論を成立させるかを問うものとして考えられるだろう。
つまり、〈在る私〉と〈持つ私〉の関係は両者のうちで考えるなら発生的な時間のなかでしか捉えられないが、〈呼ぶ私〉だけがある種の非時系列的な平面のうちに両者を配置することができる。
イメージをそれを呼ぶ名の水準であつかうことによって〈持つ私〉の拠点である身体もまた物質として考えることが可能になっている。
物質や身体はつねに名=概念の水準であつかわれており、あたかもイメージは「呼ばれるもの一般」であることによって内在平面としての機能は果たしているかのようだ。つまり、システム=概念=名の水準と、イメージ=内在平面=呼ばれるものの水準の区分け自体が、〈呼ぶ私〉によってもたらされている。
〈呼ぶ私〉によって非時系列的な平面が開設されることで、〈在る私〉から〈持つ私〉への移行を、同じイメージの同時的な二重帰属として捉えなおすことができるようになる。〈持つ私〉は対象と身体とのあいだに物質的な連続性を見ないが、それは潜在的に〈私〉でありうる同じイメージだ。他方で、〈呼ぶ私〉によって概念とそれに対応するイメージの様態というふたつの水準が敷かれることで、〈在る私〉において不在である端的に〈非 – 私〉である物質の実在を、概念として確保することができるようになる。
システムの重ね合わせの裏側には〈私〉の重ね合わせがある。
「物質から知覚への移行」
ここで直観の与件が〈在る私〉から〈持つ私〉への移行に、意識的な遡行が〈呼ぶ私〉に対応すると考えられないだろうか。「われわれを純粋持続のうちに置きなおすことreplacer」という表現には持続の対極に位置するはずの空間化の作用が同居している。
ベルクソンのイメージにおいて、外在的なフレームなしには自然に属するものから思考に属するものを引き剥がせないのは、思考のイメージとしての思考(権利上の知覚)と存在の質料としての自然(知覚されずに存在する)を往復する杼 シャトルの無限運動こそがイメージであるからだ。
そしてこの無限運動において、ふたつのシステム、脳、純粋知覚といった諸概念が創設されるのであり、これらの平面への配分が再び〈一者〉としてのパフォーマティブないし論理的な意識の超越のもとへと吸着されないためにこそ、〈私〉の多元性は要請されている。三つの〈私〉が実現するのはその特異な三人称的布置であり、われわれが「ベルクソン」という固有名に帰属させるのは「常識」の内在的書き換えを遂行するこの布置だ。
『非美学』福尾匠/著