Ⅱ 啓蒙
a 啓蒙と迷信とのたたかい
洞察の暴力的なたたかい
純粋な洞察と意図はひとえにじぶん自身を否定するものでありうるにすぎない。洞察は、かくして洞察であるかぎり純粋な洞察にとって否定的なものとなる。洞察は非真理となり、非理性となってしまうのだ、それは意図としては純粋な意図を否定するものとなって、虚言となり、目的を不純にするものとなるのである。
啓蒙の信仰批判と、信仰の立場
私にとって対象であるものは、そこで私がじぶん自身を認識するものであるから、私がじぶんにとってこの対象のうちに存在するのは、同時に総じて他の自己意識としてのことである。ーーすなわちじぶんの自然性と偶然性からーー疎遠になっている自己意識なのであり、その自己意識はしかし一方では対象のなかで自己意識でありつづけ、まさにおなじ対象のうちで本質的な意識であるのと同様に純粋な洞察なのである。
信仰を批判する啓蒙の自己矛盾
べつのものであるという、この否定的な規定こそが対象をかたちづくっているからだ。
すなわち、意識はその異他的で他なるもののうちにじぶんの純粋な本質を直観するのと同様に、みずからの個別的かつ普遍的な個体性をも直観しているというわけである。
第二の契機ーー信仰と啓蒙は相互に伝染する
純粋な洞察はしたがって、その実現という面でとらえれば、このじぶんにとって本質的な〔媒介する運動という〕契機を展開するとはいえ、当の契機は洞察にとっては信仰に属するものとして現象し、その契機の規定されたありかたは洞察にとって外的なものであるということである以上、くだんの契機は一箇の偶然的な知としてあらわれ、その知はほかでもなく、そういったありふれた現実的なできごとにかかわることになる。
第三の側面ーー信仰における行為への洞察の関係
このおこなうことというのは、個体の特殊なありかたを廃棄することであり、いいかえれば個体の自立的存在にまつわる自然的なありかたを廃棄することである。そのような廃棄をつうじて、個体にとっては確信が立ちあらわれてくるのであって、すなわち個体はそのなすところにしたがい純粋な自己意識であり、自立的に存在する個別的な意識でありながら、実在とひとつのものであることを確信するにいたるのだ。
啓蒙の真理の第三の契機
感覚的現実はそれ自体として存在するものではない。むしろただ、一箇の他なるものに対して存在するものとなる。意識の先行する形態にあって、対立の諸概念は可否というかたちで規定されている。そうであるとすればその諸概念はこれに反して純粋な洞察にとっては、より純粋な抽象となっており、その抽象とはつまり自体的に存在することと、他に対して存在することにほかならない。
有用性の次元ーー自体的存在と対他的存在
人間にとって理性が有用な手段なのであり、理性はこのような超出を適度に制限することになる。ことばをかえれば、規定〔限定〕されたものをこのように超えでてゆくことにあって、かえってじぶん自身を維持するということである。なぜならこれこそが、意識の力というものであるからだ。
ーー人間にとっていっさいが有用である。同様に人間もまた有用であり、人間の使命もおなじように、共同的に有用で、一般的に利用されることのできる、団体の成員となることにある。じぶんについて配慮するのとちょうどおなじだけ、人間はまた他者たちのために力を尽くさなければならない。
人間は他者たちを利用し、また利用されている。
信仰する意識における知と行為と所有ーー喜捨と禁欲の欺瞞について
つまり啓蒙が思考するのは、ただ媒介についてだけなのだ。啓蒙が考える媒介は、しかも疎遠な第三者を介して生起するものであって、いっぽう啓蒙が思考していない媒介とは、そのうちで直接的なものがじぶん自身にとって第三者であるような場合である。そうした第三者をつうじで無媒介的なものが他のものと媒介される。
『精神現象学 下 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。