「内なるもの」と「外なるもの」
「外なるものは内なるものの表現である」
あきらかなのは、普遍的なものは存在するものの外部のどこかでその現実存在を有するなどとはされていない、ということだ。
内なるものと「形態」としての外なるものについて
有機体が存在するということは本質的に、普遍的なありかたとして存在し、じぶん自身に反省的に立ちかえることとして存在することである。
むしろ過程のうちでだけまた、解剖学的な部分のさまざまがなんらかの意味を有するのである。
質的区別の量的区別への転換
存在するものとしての区別が表現されるそのしかたは、ほかでもなく、この区別が〔質的な区別に対して〕無関心な区別であるというものであって、つまり区別は量として存在することになる。
したがって、対象的なものはすでに、それが有機的に規定されたありかたにおいてとらえる場合には、それ自身にそくして概念を有しており、概念をそなえていることをつうじて、悟性に対して存在する対象的なものとは区別されている。悟性はみずからの法則の内容を把握するにさいして、純粋に知覚するものとしてふるまっているからである。
感覚的なものと有機的なもの、知覚されたものと悟性が把捉するものとの取りかえ
強さや脆弱さはまったく感覚的で、思想を欠いた規定であるけれども、それに劣らず、感受性や反応性の大小といったものも思想をともなわずに把握され、思想がないままに言明された、感覚的な現象なのである。
外なるものにとっての内なるものと、外なるものとの関係について
現実の有機的な存在者が媒語であって、その媒語によって生命の自立的存在が外なるものの一般あるいは自体的存在と推理的に連結されているのである。
有機的なものにとっての数と量ーー比重について
このように単純にじぶんだけで存在することが、他のものに対して無関心で静的なありかたであることによって、比重は他の性質とならぶひとつの性質としてあらわれる。かくて消失するのは、この数多性に対して比重の有するあらゆる必然的な関係であり、ことばをかえれば法則性のいっさいである。ーー比重はこのように単純に内なるものであるから、区別をじぶん自身としては有していない。あるいは比重がそなえているのは、ひとえに非本質的な区別であるにすぎない。
非有機物なものの存在とは、絶対的な否定性や概念ではないということなのである。
有機的なものにおける類、種、個別性
むしろ個別的なありかた自身が、それ自体として普遍的なものなのだ。
みずからを展開する個別性と、有機的に普遍的なもの、つまり類とのあいだには、規定された普遍的なもの、すなわち種が入りこむはこびとなる。
現実は種からはじまる。いいかえれば、現実のうちに入ってくるものは類そのものではないということだ。
有機的なものにおける「推論」の成立
類というものは、数という普遍的な規定性にしたがって種へと区分されてゆく。
普遍的な生命とは偶然的理性である
全体がそこに現にあるのではないというのは、全体が全体として、ここでそれだけで存在するわけではないからである。
有機的なものを観察する理性の限界
興味とはしかし、なお理性にかんする思いなしにすぎない。
『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。