自己の中の(あなた〉なるもの
主たちの領域は、森の中の人間的ではない記号過程とーーとりわけ人間的な仕方でーー関わりあおうとする際に早発する、広大な潜潜的な体系である。つまり、主たちの領域は言語のようである。ただし、言語よりも「肉体的」であるーー実際には、人間的ではない記号過程が通り抜ける、より広大な一帯の中にとらわれている。同時にそれは、より霊妙なものである。森の中にある領域なのだが、自然と人間的なるものともども超出する。一言で言えば、「超自然」である。
この主たちの霊的な領域は、誰が、そしていかにある〈私〉でありうるのかということ、またそれがその〈私〉の連続性ーー生存ーーのためのうつわを提供するということを、解釈し、そしてそれゆえに、それを許容し、拘束するようになる。
ヴィヴェイロス・デ・カストロは、続けて「超自然は、主体としての他者の形式である」と論じる。私であれば、以下のように言うであろう。超自然は、このより高位の、奇妙でありかつなじみがある他なる自己によって呼びかけられることで、ある者が存在するようになる場所である。
つまり、こうしたものをより広い〈私たち〉へと取り込むように成長しない自己は、生きた〈私〉ではなく、〈私〉の死んだ抜け殻である。
シャーマニズム的に見ることとは、見ることの意味を変えることなのである。
いかにして、ある者が〈あなた〉のパースべクティヴに住まうのか、いかにして、ある者は、それを自らのの〈私〉とするのか。
生ある未来
精霊は実在する。
一般性それ自体や構成的な不在、つなぎ目の不在を超える連続性、因果的な時間の諸動態の中断といったいくつかの特性が、主たちの領域において一層増幅されるので、そうした特性は、その不可視のために、ある意味、可視的になる。
生存することは、生命を超えて生きることである。生きることを超えることである。しかし、ある者が生き延びるには、生命との関係だけではなく、多くの不在のものとの関係が欠かせない。『オックスフォード英語辞典』によれば、「生存すること」は、「別の者が死んだあと、もしくは、何らかの(言明された、もしくは示唆された)出来事が起きたあと、もしくは、何らかのものないし状態が終わったあとに生き続けること」を意味する。生命は、生命ではないものとの関係によって成長する。
その上で生存に必要なことは、ある者の未来の自己ーー森の主たちの領域で細々と生きている自己ーーのうちの何かが、うまくいけば応答するかもしれない自らのより世俗的なその部分を、顧みることができる道を切り開くことである。こうした連続性と可能性の霊妙な領域は、種=横断的で、歴史を横断する一群の諸関係から創発することで生じるものである。
何にせよ、生命は常に、魂がその良い例となる、つなぎ目の不在を越えるこのようなたぐいの連続性にまつわるものだからである。
この広大ではあるが壊れやすい、関わりあいの領域は、森の中や森の数多くの過去を宿す未来の領域において展開されるので、こうした関係のあまりに多くが殺されてしまわない限り、可能性の世界である。ハラウェイが指摘するように、殺すことは関係を殺すことと同じではない。
殺すことと関係を殺すこととは、個とたぐい、トークンとタイプ、生と死後のように、ふたつの異なったものである。こうした具体例のうち、前者は特殊で、後者は一般である。これらの全てが、実在する。あれこれの未来を可能にする多数の死との関係において、生ある未来を思考すること。このことを、この人間的なるものを超えた人類学が習得できるようになる唯一の道は、この思考する森に息づく多くの実在する他者ーー動物、死者、精霊ーーと注意深く関わりあうことなのである。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳