7 ケアティカーとしての人民ーードゥボール
もし世界全体を支配する権力と力への直接的で媒介されない経路を手にするならば、ケアの制度への依存をなくし、セルフケアを実践することができる。
われわれの心臓、新陳代謝、血管組織にとっていちばん悪いのは、まさにこの急かされる感覚である。
真理の観想が創造的な仕事のための行動に取って代わったとき、状況は一変した。永遠ではなく未来が特権的な制度に対するメタの場となった。
個人はあらゆる制度のルールを壊し、伝統的な慣習を排除し、そしてそうすることによって根本的に新しい何かを創造するとされる。
ヘーゲルは進歩の仕事を否定の仕事として理解した。ヘーゲルの弁証法の論理の枠組みでは、新しいものは古いものの否定の思わぬ結果として現れるのであり、それ自体目的として現れるのではない。
権力への意志は否定ではなく、むしろ差異、人間存在の新たな可能性を生み出す。
ドゥルーズがニーチェについて彼の本の中で正しくも述べている。「肯定から新たな価値が生まれてくる。今日まで認識されていなかった、すなわち立法者が「科学者」にとって代わり、創造が認識そのものにとって代り、肯定が認識されてきたいっさいの否定にとって代るそのとき認識されていなかった、諸々の価値が」。
変化は個人の中で生じるのではなく、技術の進歩によって彼らに押し付けられるのである。
儀式の毎回の反復は、反復の反復、模倣の模倣、再活性化の再活性化である。
競争化社会は同時にスペクタクルの社会でもある。
今日観賞者の役割は世俗化された。公衆が神に取って代わり、スペクタクルの大きな「他者」となる。
社会学者とPRに携わる人々は、公衆の好みの論理と力学を説明しようと試みる。問題は、それらすべての説明もまた競争関係にあり、真理として認められるためには公衆に受け入れられなければならないことである。
生命や権力への意志は「善と悪を超越している」。
そして資本主義経済は生産と同様消費を必要とする。もし生産品が消費されないならば、それを生産する経済上の理由がなくなるからである。
近代のスペクタクルは民主的な公衆を前にして生じる。したがって、中心的な疑問は次のようになる。誰がデモス〔市民、国民〕なのか?あるいは、誰が人民なのか?
8 誰が人民なのか?ーーワーグナー
気まぐれは流行の支配の元にあり、贅沢への人為的な必要性を生み出すのが、不幸なことに、それは芸術を巻きこむ。
流行の力は習慣の力である。しかし習慣は、あらゆる弱者や臆病者、真に必要なものかは何がを感じていない者たちの、克服しがたい暴君なのである。習慣はエゴイズムのコミュニズムであり、共通の必要を感じていない私欲を強靭に結びつけている絆である。習慣が生に対して人為的に与えている刺激こそ、まさに流行がもつ刺激に他ならない。
芸術は常に観客、聴衆、読者のために作られ、彼らの反応を期待する。どの文化的活動でも実際の原動力は作者の健康とエネルギーではなく、観客の想定される健康である。真の危機はこの危機が疑わしくなる時に始まる。
『ケアの哲学』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳