

『かみ派の美術 ― 諏訪につどった前衛たち 1969-1974』
https://inabun.jp/sponsor/2026/01/-19691974.php#003620
1960年代後半、日本社会では制度や価値観への疑問が高まり、美術や芸術の世界でも表現や制度のあり方が大きく揺らぎ始めました。長野県諏訪地域には、絵画や彫刻といった物質的な作品から距離をとり、「ことば」や「行為」を通じて哲学的に社会と向き合おうとする前衛たちがつどいました。
当時、下諏訪町には観念美術を提唱していた美術家・松澤者がおり、全国的にも注目されていました。そのため、これまで彼らの活動は松澤を中心に語られてきましたが、本展では、個々の作家やイヴェントに着目し、それぞれの表現や関係性を紐解きます。
諏訪の豊かな自然と文化に影響を受けて彼らが試みた表現をご覧いただける、貴重な機会となります。かみ派の「かみ」は紙です。非物質な芸術を目指した彼らは、表現や記録の媒体として「紙」を使いました。「かみ派」は、彼らの総称として、当時一部の関係者によって使われていた言葉です。
| 美術という幻想の終焉
1969年8月8日-14日
長野県信濃美術館(現・長野県立美術館)で開催された作家たちによる自主企画展覧会。松澤宥は「自筆年譜」(『機關」13号、1982年9月)において、「日本で始めての概念美術の展覧会であった」と評している。
事務局長を担った春原敏之や、杉村俊明、竹田潔、森仁志らが開催に尽力した。また、毎日新聞社の峯村敏明に相談、美術評論家の中原佑介にも協力を仰ぎ、展覧会の準備を進めた。目録リーフレットによると、出品作家は12名。長野県出身の作家たちと、松澤や中原の推薦と思われる作家たちだった。「作品をつくること」を放棄し、芸術の/による「完全な開放」を希求することを謳い、展覧会は立ち上げられていった。
8月10日には、長野市街地にあった長野名店デパートでシンポジウムが行なわれた。講師は、中原佑介、峯村敏明。司会は、<新潟GUN>の前山忠が務めた。
1 現実にむかって・変化にむかって時間にむかって・空間にむかって人類にむかって・破滅にむかってひらかれている
2 窮極の自由にむかって開かれつつ
3 刻々に流出し・変貌し・拡張する物象・行為・映像・そのコミューンインフォメイション・ドキュメント観念・仮説・過程・シンポジュウム
4 会期の前から始まっており、会期の後もつづいている・メタ展覧会
5 新たに今ここで深く心の共有がはじまる・その一つの斬新な方法・君の観念と表現をメイルアートとして下記の会場までとどけられよ 君はわれわれと今結びつけられた
6 地下水のように静かに絶えまなく
7 大自然のよう
8 万人による
9 空
信濃美術館・1972・3/5-3/12(水・体館)
長野市城山公園内・TE L32-2107
事務局・長野市旭町・旭ビル3F・長野デザインセンター内・ひらかれている・宛・シンポジューム・場所
信濃美術館会場・3/12PM1:00~4:00


| ひらかれている
1972年3月5日—12日
「ひらかれている」は、長野県濃美術館第2展示室で行なわれた自主企画展覧会。作品は展示室だけでなく、美術館の建つ城山公園の敷地を越えて町中に展示され、近隣の神社でも行為による表現がなされた。展覧会を企画したのは、松澤者、水上旬、田中孝道、春原敏之であるが、ヨシダ・ヨシエが案内状に文章を寄せ、展覧会の核となる思想を提示している。
ポスターにあるように、現実・変化・時間・空間、さらには人類・破滅に向かって「ひらかれている」ことを謳い、物象や行為、映像などによる表現がなされた。また、郵便による参加も呼びかけられた。そのため、長野をはじめ、東京、愛知、岡山、長崎などの国内に加え、スペインやブラジルといった国外からの参加もあり、案内状に名前が掲載された38名を上回る人数となった。
この展覧会は「メタ展覧会」とされ、「展覧会」や「美術館」に制約される時間や場を超えて、会期以前からその後まで続けていくことが目指された。ヨシダ・ヨシエを講師として、12日にシンポジウムも開催されている。
プサイアート集合
集合宣言
ただ今のこの文明はナンセンスである それが発見されて変革がはじまった 現われているものが見えなくなり 見えないものが現われてくる世界の非物質化がはじまった あらゆるもののデペイズマンをいそげ 過去の思想と方法と技術と価値は金の延べ棒または金の玉ほどの意味もない消滅を原理とせよ それのみが人類の危機をすくう唯一の道だ
集合時間 1969年1月9日6時9分
集合空間 長野県下諏訪町 虚空間状況探知センター
集合物質 写真図面 ダイアグラム 文章 磁気テープ(テープコーダー用) 磁気盤(マグナファックス用)その他の資料なんでも可だが
集合方法1 反物質主義を標榜するために物質的痕跡を最小限にとどめること
2 不可視的表現 非実体的表現虚の表現がの
ぞましい
3 非有 非空 非非有 非非空の表現を求めよ
4 十分に気ちがいじみた新方法を待つ
集合費用 無
集合有志 集合空間であるセンターまで至急連絡されよ


口語体の非物質化?!
文語体の句読点を消滅させ非物質を提唱するスローガン、その口述は記録媒体として”かみ”へ出力させれば歴然とした「物質化」でもある…。現代アートを彷彿とさせるプラグマティックな実践、その行為化は、昨今は政治経済を背景とする情報ネットワークそのものでしかない。
物質に依らない「作品化」は”宣伝広告”という顕在化させる政治性 – 媒体、”プロパガンダ”という潜在化させる操作性 – 媒介、そんな二重性を矛盾を孕みつつ両義化させる。アクティビストが芸術を社会へ関与させ、社会を芸術に参入させるアクティビズムへ連動させるソーシャル・プラクティスへと関連づけることは容易いが、実際のところデペイズマン的所作によって擬人化 = 非人間化を暴く制度批判は、クリティカル・アートの系譜、その芸術実践であって、批評文化の脱政治化となっていないのが気にかかる。
松澤宥 [1922- 2006]
Matsuzawa Yutaka
64年6月、物質的作品の制作を放棄することを決意。以後は言語による非物質的な芸術実践を行ない、日本における観念美術の先駆者として知られるようになる。
69年の「美術という幻想の終焉」以降、観念美術を志向する表現者たちが松澤の居る下諏訪につどい、「ニルヴァーナ・コミューン」による表現活動が次々と展開されていくこととなる。
杉村俊明 [1945-]
Sugimura Toshiaki
1968年から69年にかけて、上田市の洋画研究会〈鹿苑会〉に参加し、春原敏之らとの交流を通じて地域の若手作家たちとのつながりを深めた。
69年元旦には春原の誘いで菅平高原での〈雪上絵画&ハプニング〉に竹田潔、森仁志、小坂井良一、大竹茂雄とともに参加。同年、「美術という幻想の終焉」では、地図を用いた作品を発表。上田市から始まる自紙の領域が徐々に広がり、長野県、さらにその周辺へと浸食し、最終的には地図全体が真っ自になるというものであった。地域という起点から世界を見渡す視点の拡張を通じて、自らの存在の不確かさを静かに示しているようだ。
70 年には「ニルヴァーナ 最終美術のために」に参加。<精神構造変革薬開発研究所>の名義で、内服薬の薬袋を模した作品を出品。薬
袋の注意書きや内封された紙片からは人間性の回復や意識の共有を促す意図が感じられる。71年には「退化宴」「音」「白い思想、その旅立ち宣言」など、長野県内で開催された「ニルヴァーナ・コミューン」の実験的な集まりに加わった。
小林起一[1936- 2006]
Kobayashi Kiichi
67年、諏訪実業高校と富士見高校を兼務する中で松澤者と出会い、70年には「ニルヴァーナ 最終美術のために」に参加。以降、「ニルヴァーナ・コミューン」の活動に参加した。
1971年8月の「音」では、泉水入瞑想台西方に「西廊」を設け、「キノウナクナツタヤツガイルカラアイテイル無縁無踊行・無縁無踊行」「あなたの密字を登録せよ」と誦して、立木30本余りに自布を巻くことで、冥府を象徴する場を立ち上げるなど、観念と儀式が融合する表現を展開した。〈ねり千ぎりの儀〉と呼ばれるうどん作りの儀式は、彼の思想と身体性を象徴する行為として知られている。71年から始まった〈退化宴〉は、小林の芸術活動の代名詞であり、「人間の本性は退化空間のみに存在する」という思想に基づき、自然破壊や進歩主義への批判を込めた実践である。
74年に上水内北部高校に着任後は、木の骨組みにトタンを張っただけの「ロバ亭」を建設。電気やガスを使わず、雨水と自給自足の生活を送り、ロバやヤギ、ウサギ、鶏などの動物と共生する暮らしは「ロバ先生」として新聞にも取り上げられた。