〔言語と世界とにおける表現の奇蹟〕
つまり話すという意向は開いた経験にしか存しえない。
言語はもはや一つの道具ではない。もはやそれは一つの手段ではなく、内奥の存在と、われわれを世界ならびに同胞に結びつける心理的な紐帯の、表明であり示顕である。
身体の空間性と統一に関する考察にもまして、言葉と表現の分析は、自己の身体の謎のような性質を明らかにする。
ほかならぬ身体そのものが表示するのであり、語るのである。
世界の問題、そしてまっさきに自己の身体の問題は、そこにすべてが存在しているということに存する。
〔身体とデカルト的分析〕
デカルト的伝統によって、われわれには対象からわれわれ自身を引き離す習慣がついている。
客体はすみずみまで客体であり、意識もすみずみまで意識である。存在するという言葉に二つの意味が、そしてただ二つの意味のみがあることになる。ひとは物として存在するか意識として実存するか、いずれかである。自己の身体の経験はこれに反して両義的な実存様式をわれわれに顕示するのである。
身体の統一はつねに暗黙のうちの定からぬ統一である。身体はつねにかくあるところのものとは別のものである。
かくて自己の身体の経験は、客体から主題化から、主体を客体から分離するところの、そしてわれわれに身体の思惟もしくは観念における身体しか与えず、身体の経験もしくは現実の身体を与えないところの、反省の運動に対立するのである。
『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。
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