mitsuhiro yamagiwa

ホッパーの描いたアメリカは、確かにアメリカではあったが、アメリカであることがためらわれる、宣言できずにいる、アメリカのどこかの場所である。


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《The Room by the Sea 》1951 Edward Hopper

《 Cape Cod Morning 》 1950 Edward Hopper

《Approaching the City 》1946 Edward Hopper

《 Night Windows 》 1928 Edward Hopper

《 Eleven AM 》 1920 Edward Hopper


エドワード・ホッパーとアメリカ美術の近代

かつてエドワード・ホッパーは芸術家の運命について「その95パーセントは、死んだら10分後に忘れさられる」と語った。

なぜ、ホッパーの絵画世界はこのように影響力を持ち続けてきたのだろうか。その理由の一つが、ホッパーの絵画と現実の風景との間におけるイメージの往還だろう。

彼の描く世界においては、アメリカの都市あるいは郊外に生きる人々の孤独、虚無、単調さといったあらゆる「アメリカ的経験」の心理が探究され、アメリカという場所の詩が詠われている。彼は、20世紀初頭の激変しつつあったアメリカの様相を「肯定的」(alternativeに描いた。

アメリカ的芸術の探究

「アメリカ的性質」は、アメリカの芸術家に常につきまとう問題だつた。それはアメリカがいまだ芸術後進国であると考えられていた19世紀末から20世紀初頭に、アメリカ人の芸術家たちがヨーロッパ文化に対し、程度の差こそあれ、劣等感を抱いていたことに端を発する。
 イギリスの植民地として出発したアメリカだったが、独立し、わずか100年後の19世紀後半には、イギリスやドイツを抜き、世界第1位の工業国となった。

20世紀も10年を過ぎると、この流れに徐々に変化が起きはじめた。ヨーロッパ中心主義から脱却し、アメリカ独自の芸術を模索する動きが若い世代の間で現れたのだ。都市部、特にニューヨーク市に集まってきていた知識人や批評家、そして芸術家の間では、ヨーロッパ文化への盲従やその模倣をやめ、アメリカ固有の文化や芸術を探究すべきだという議論か活発になされるようになった。

この国において我々は、文化としての芸術を必要としていない。すなわち洗練れた優雅なパフォーマンスとしての芸術や、詩的なもののための芸術といったものは必要ないのだ……我々が必要としているのは、今日の人々の精神わ表現する芸術だ。 ロバート・ヘンライ

ここでの「今日の人々」とは同時代のニューヨークに暮らす人々であり、決して富裕層や知識人エリートではなく、地方から都市に出てきた、あるいは移民としてやってきた労働者階級であった。つまりごく普通のアメリカ、ニューヨークの一般大衆の日常生活こそを主題として扱うべきだとヘンライは考えたのである。

アメリカの片田舎ら、アメリカの未解明の無意識の底から春が訪れたのだ」と芸術の主題としてのアメリカを奨励した。

20世紀初頭のニューヨークで何が起きていたのか

ではなぜ、このようなヨーロッパ優越論からアメリカ肯定論へという大きな意識の変化が起こったのだろうか。一つの要因として考えられるのは、アメリカ合衆国の国力の増強であり、政治・経済での国際的舞台での躍進である。

また別の理由としては、この時期、とりわけ1910年代から20年代にかけての文学の領域におけるナショナリズムがあげられる。この文芸ナショナリズムは、他の領域へ多大な思想的影響を及ぼし、文化全般におけるナショナリズムの推進力の一つとなっていた。

アメリカ美術の後進性があらわりなり、その発展や独自性の追求が喫緊の課題としてアメリカ人の芸術家たちに突きつけられた。

アーモリー・ショウは「アメリカの芸術家たちに同時代のフランス人と比較して彼らがいかにひどいかを見せつける」目的で開かれたようなもので、「ヨーロッパ文明を前にした我々の文化の卑屈な態度は……我々が真の意味で我々自身の固有の文化を形成することを妨げる主要な障害なのである」とボーンは述べた。そしてまた、「このみじめな状況に対する唯一の救済策は、新しいアメリカのナショナリズムの構築なのである」と主張し、アメリカ独自の芸術や文化の確立を唱えた。

アメリカの芸術家たちーーいくつかの大きな流れ

ヨーロッパの影響をあまり感じさせないような、スティーグリッツ・サークルの芸術家の作品が主に展示され、アメリカにおけるモダニズムとは何かという問題が探求された。

さらに別のサークルとしては、批評家でありコレクターであったルイーズ・アレンズバーグとウォルター・アレンズバーグ夫妻を軸としたものがあり、そこにはキュビスムやダダイズムなどヨーロッパのモダニズム芸術に傾倒する者が集まっていた。ジョセフ・ステラ、写真家兼画家のチャールズ・シーラー(1883-1965)に加えて、ヨーロッパから戦火を逃れてやってきたマルセル・デュシャン(1887-1968)らの姿もそこにあった。
ウォルター・アレンズバーグは新聞記者としてアーモリー・ショウを取材したことがきっかけとなってモダニズム芸術のコレクションをはじめ、そのコレクションが展示されていたマンハッタン西67丁目の夫妻の邸宅は、1921年にカリフォルニアに移住するまでモダニストたちのサロンとなっていたという。ここから後に「ブリシジョニズム」と呼ばれることになった、アメリカ絵画におけるモダニズムの流れが誕生した。
 しかし同時に、夫妻やその周囲の芸術家たちは、モダニズム芸術のみならず、アメリカの過去の美術にも高い関心を示した。

美術と文化ナショナリズム

このフォーク・アートの発見と評価は、文化ナショナリズムが実際に美術に及ぼした影響の顕著な例であると言える。

 こうしてアメリカ独自の文化の基盤となりうる「過去」が可視化され、依拠することのできる「伝統」や「歴史」が創出されていった。
 そして何より芸術家たち自身が実際に作品において「伝統」に言及するようになった。

さらには、1920年代末から1930年代にかけて、トーマス・ハート・ベントン(1889-1975)やジョン・スチュアート・カリー(1897-1946)、そしてグラント・ウッド(1891-1942)といった画家たちが、近代化がまだ十分に進んでいなかった地域の人々の生活や文化に焦点を当てた作品を数多く制作した。彼らは、アメリカ中西部の田園風景、そこに暮らす人々、そしてその牧歌的な日常生活を懐古的に描写した。後に「リージョナリズム」と呼ばれるようになったこの画家たちに、スタイル上の明確な類似点があったわけではないが、ヨーロッパのモダニズムに見られた抽象的なスタイルではなく、写実的手法に基づいて、中西部の昔ながらの農村風景や日常生活を描くというコンセプトが共通して見られた。彼らの作品は、文化ナショナリズムが第二次世界大戦を前にいっそう強化されていったことを受け、高く評価されるようになり、一般の人々にも人気があった。
 そしてホッパーもまた、その主題の類似性から、しばしばこういったリージョナリズムの画家とともに論評されることもあった(彼がそれをひどく嫌がっていたことは、上述した通りである)。

ナショナリズムの二つの方向性

美術史家ワンダ・コーンは、20世紀初頭の文化ナショナリズムには、二つの大きな流れがあったと見ている。一つ目は、上述したように、ブルックスらの批評家や、あるいはシーラーなどの画家たちに見られた「役に立つアメリカの過去や伝統」に回帰する傾向であり、もう一つは「役に立つ現在」に依拠する傾向で、退廃し、堕落した「古いヨーロッパ」とは違う、アメリカの新しさを強調する流れであった。同時代のアメリカ社会に特徴的に見られたものを強調することによって、「アメリカ的芸術」を模索していこうとする試みであった。
 この「役に立つ現在」、つまりアメリカの近代性に着目する方向性は、全く異なるスタイルを展開していたモダニズムとリアリズムの画家たち、双方に見られた。彼らは「エ業化されたアメリカに焦点を当て、ナイアガラの滝やロッキー山脈の図像を高層建築、看板広告、ブランド名入りの製品、工場、配管設備に置き換えた」のであり、そうすることによって、アメリカ的性質を表現しようとしたのである。
 ではホッパーはこうした文化ナショナリズムをどのようにとらえていたのだろうか。画家として成功するためには、こういった1920年代から1930年代の空気を考慮せざるを得なかったはずである。先述したように、ホッパーが長い下積み時代を経て、経済的に成功したのは、1924年の個展がきっかけだった。そしてその際には、それまで出展し続けてきたフランス時代の作品や、フランス印象派風の作品ではなく、ニューイングランドの風景を描いた水彩画をホッパーは出展し、成功をつかんだ。また、この20年代後半以降、ホッパーはそのスタイルを大きく変えていった。フランス印象派的技法を捨て、より写実的な表現によって、積極的にアメリカの風景を主題として取りあげるようになったのである。よってホッパーはアメリカ的なるものを求める愛国主義の風を十分に認識しており、そういった時代の要請に応じつつ、そのスタイルを発展させていったと言えるだろう。
 そこで問題となってくるのが、ホッパーの芸術家としての複雑なアイデンティティである。先述したように、ホッパーの青年期には、未だヨーロッパのアカデミズム芸術が規範として存在していた時代だった。また、フランス文化愛好者だった画家は、実際に渡欧し、芸術や文化を貪欲に吸収した。そして1910年代の作品には実際に、フランス印象派的技法が多く取り入れられており、またその主題の大半がヨーロッパの都市や自然だった。
 ホッパーにとって「役に立つ過去」や「伝統」があったとすれば、それはヨーロッパだった。フランスの美術や文学、演劇文化だった。

ホッパーが「役に立つ現在」を進んで取り入れることはなかった。

ホッパーは新しい時代の様相に背を向けた。彼は摩天楼や工場、機械を描かなかったのである。「役に立つアメリカの現在」に言及することはなかった。

ホッパーのアメリカとは、一体何だったのだろうか。

2 エドワード・ホッパーのアメリカ

フランス文化愛好者としてのホッパー

「帰国した時アメリカはひどく野暮ったく、粗雑に見えた。ヨーロッパを克服するのに10年かかった」という彼自身の言葉に凝縮されているように思われる。

 エッチング制作は、結果的にホッパーの油彩画のスタイルの完成に大きく寄与した。エッチングは、ニードルでの線描と腐食を利用した版画である。よってはモチーフを線のみによって構築することになり、輪郭線への意識が要求される。これは、フランス印象派の油彩に見られるような、さっと一筆でモチーフを線写する技法とは対照的であり、印象派を乗り越えようとしていたホッパーに、大きな技術上のヒントを与えた。

「アメリカ」との距離

ホッパーはアメリカ・シーン派の単純なリージョナリズムを軽蔑し、リージョナリストたちが懐古的に描いた、「古き良き」アメリカを否定していたとも考えられる。

《ニューヨークの鋪道》、《夜のオフィス》では、対象を斜め上から見下ろす俯瞰的視線による構図が用いられている。
 こういった構図や視点は結果的に、描かれた対象とそれを見つめる者との間の距離を生み出す。ホッパーの絵画では、モチーフ固有の性質は薄められ、むしろ抽象化されて描かれている。

ホッパーは、特殊性を薄める構図や視点によって、結果的に、普遍的で一般的なものとしてアメリカの風景を表現することになった。それは抽象化された、記号的なアメリカと言ってもよい。

ホッパーの作品において視線は漂流している。そして人々は誰も見つめ返すことはない。そこに暗示されるのは、一瞬そこを通り過ぎるだけの、冷静な目撃者としてのホッパーの視線である。

美術史家ブライアン・オドハティの分析、すなわち、ホッパーの絵画における孤独とは、しばしば言われるような都市の人間の孤独ではなく、「光景からの観察者の距離」によってもたらされる孤独であり、「イメージの意味づけからの切断」であるという分析は示唆に富んでいる。ホッパーの絵画世界を見る者は、その風景から引き離され、そこに立ち止まることなく、場所に深く関わることなく、遠くから眺めるしかないのだ。
 こういった構図には、画家の抑圧された感情が見え隠れする。それはアメリカの風景に対する、ホッパーの冷静な、距離をおいた態度、または、「文化や教養のない」粗野な20世紀初頭のアメリカへの嫌悪とも言えるだろう。画家としてホッパーは、光景を正面から眺めず、光景を眺める者の視線を隠蔽し、特殊性や固有性を排除することによってアメリカの近代を描写し、アメリカの現実から距離を置いた。そこに、物質主義の狂乱に満ち、大きく変貌しつつあったアメリカを離れ、知的洗練をフランスに求めた若い時代の画家のアイデンティティの残滓や、内面世界に残存するフランスへの愛が垣間見られるのではないだろうか。断ち切ることができないフランスへの思いが、この屈折した表現に現れているのではないだろうか。
 ホッパーのアメリカの風景に対する冷淡な態度は、フランスの亡霊と現実のアメリカの間で選択を迫られ、決断を留保する画家の葛藤から生じたものなのかもしれない。
ホッパーの描いたアメリカは、確かにアメリカではあったが、アメリカであることがためらわれる、宣言できずにいる、アメリカのどこかの場所なのである。
 画家は、その晩年において、時代の要請によって培われたアメリカの画家としてのアイデンティティと、内面の奥深くにしまい込まれたヨーロッパ的アイデンティティの対立が引き起こす緊張や衝突から逃亡を企てた。《階段》(1949年)の開かれたドアの向こうに前触れもなく出現する森や、《海辺の部屋》(1951年)に描かれた、部屋の隣に突如として広がる青々とした海は、現実の空間の終わりを告げ、ヨーロッパでもアメリカでも、どこでもない、自然への跳躍を誘う。文明と自然が唐突に出会うこの不思議な光景は、画家の逃避の欲望を満たす、現実を超えた架空の世界だったのかもしれない。

人生という最も皮肉なコメディー

ホッパーの生を眺めてみると、そこにアメリカの芸術家として名声を得たいという強い野心を抱いた一人の人間の姿が浮かび上がってくる。オドハティは指摘している。「このような批評界と画家の思いがけない連携は、思うに、ホッパーの世代の主要な問題に対する答えであったのだ。すなわち、いかにしてアメリカでメジャーな画家になるかという」。そしてホッパーはアメリカ神話を利用して、それが不可能であると考えられていた時代に、この問題に「見事に対処した」のである。
《二人のコメディアン》(1966年)は、フランスの風刺画家オノレ・ドーミエ(1808-79)の作品に着想を得たと思われる、亡くなる直前に制作された作品である。

画家はアメリカの芸術家としてデビューして以来、レヴィンの言うように、「人生という最も皮肉なコメディー」を生き抜いたのである。この作品は、「アメリカの巨匠」を演じ続けたホッパーの、アメリカ美術界への別れの挨拶となった。
 二つの大陸の間に揺れ続け、二つのアイデンティティの摩擦と、それによってもたらされる苦悩を経験した画家は、晩年インタビューに答えて述べた。「私は自分のアイデンティティがどのようなものなのか分からない。批評家によってそれは与えられるものなんだ。そして時に画家のほうもそれを後押しする」。ホッパーが、依然として、アメリカに対する密かな裏切りとフランス文化愛好者としての顔を隠そうとしていたのか、あるいは長年にわたった内面世界における混乱や葛藤のすえの率直な感想をもらしていたのかはもはや定かではない。

都市のイメージ

ジョルジョ・デ・キリコが描いたかのような真昼の都市。この絵を見るものは、見慣れたはずの風景が、一瞬、どこか別の場所に見えるような錯覚に陥る。

ホッパーはニューヨークの白昼夢をキャンバスに写し取った。《日曜日の早朝》の陽の光に照らし出されたこの都市の街角には音がしない。マシーンエイジの新しさに振動する都市の雑踏、活気、騒音ーーこれらはすべて消去されている。人々の生活の痕跡も見当たらない。そこにはただ建物が立ち並んでいるだけである。そして建物は低い視点から眺められており、その全体像は明らかにはならない。このモチーフのクローズアップと、左右両端の切りおとしは、絵画空間に圧迫感を与え、無音や無人の設定と相まって、真空状態の都市を出現させる。
 ホッパーは、当時上演されていた、エルマー・ライスによる戯曲、『街の光景』
(Street Scene、1929年)の舞台セットにこの絵の着想を得た。初は窓辺に人が描かれていたが、ホッパーはそれを最終的に消し去ったという。

人気のない都市

画家はニューヨークを無人の空間として描き出した。人が描かれているとしてもまばらで、あたかもその場所にとらわれ、身じろぎもせずただそこに侍んでいるかのようだ。人々は消火栓や店の看板のように風景の一部となり、真空管の中に閉じこめられたかのようである。

マシーンエイジのエネルギーに満ちたニューヨーク、ジャズエイジの狂乱のニューヨーク、新しいものと古いものがごちゃ混ぜになったニューヨーク。そこをせわしなく往来する人々、都市の盛り場に熱狂する人々、あるいは日々の生活の喜怒哀楽。こういったものをホッパーは描かなかった。かわりに、音がしない通り、建物が、そして人の姿が見えない窓がそこにある。書き割りのような空は晴れ上がり、大気は透明である。あらゆるものが身じろぎもせずそこにある。

場所の詩と透明なまなざし

ホッパーは「都市それ自体、すなわち、あの、鉄鋼、石、コンクリート、れんが、アスファルト、ガラスの巨大な複合体に集中したのだ」と。

ホッパーは変化の真っただ中にあった都市を見つめ続けたのである。そしてその視線は、漂流する透明なまなざしとなった。写真や映画のカメラのような目であったと言えるだろう。ただし、アルフレッド・スティーグリッツの写真のよいにニューヨークを美化することもなかった。この透明性の結果として、ホッパーの描いたニューヨークの風景は、どこが抽象的なものになったのである。

映画館、劇場

絵画は映画のごとく

ホッパーは無類の映画好きであった。

《ニューヨークの映画館》や、《通路の二人》、さらに《オーケストラの一列目》の構図

消失点があえて中央から外され、左右に振られている。スクリーンにも、観客にも、案内係の女にも、いかなるものにも焦点が定められておらず、舞台や撮影現場ではをパンするカメラの視角を連想させる。あるいはまた、ここでは劇場を横切って移動する者の視線ーー何らかの事情で中座する観客、あるいは遅れてきた観客であろうかーーが暗示されているのかもしれない。

夢の断片

劇場にはそぐわらない静けさ

ホッパーが描いた劇場は、観客もまばらで、静けさに包まれ、人々の熱気ではなく、建築物時代や内装が詳細に描かれているだけだ。

ホッパーの《サークル劇場》(1936年)の周りには、人が見当たらない。劇場の建物と看板が、距離を置いたところから眺められているだけである。

ホッパーの絵画というスクリーンには、甘い夢や、民主主義の理想、夢を叶えるヒーローは登場しない。アメリカの神話や夢が熱心に語られた場所と、その夢の断片、そして夢から疎外された人々が映し出されるのみである。

都市の女たち

彼女たちの願いは案外古めかしいものだった。できればロマンチックな自由恋愛をきっかけに、いい結婚相手を見つけ、安定した生活を手に入れることだった。この時代、女が生涯独身で生きていくのはまだ難しかったのだ。

都市の憂鬱や孤独

ホッパーの女たちの多くは、幸せそうには見えないのだ。都会の仕事や生活に疲れ、あるいは孤独にさいなまれ、うつむきがちである。

「都会に出てきたものの、どこにも居場所がない、たどり着くことができない」という不安や失望が、その表現き垣間見える。

蒼ざめて、うつむく女たち

多くの場合、一人静かに、何かに没頭している。縫いものをする、読書をする、そしてオフィスで書類を整理する。都市の片隅で一人もの思いにふける。そしてそのうつむく顔をあげることはない。彼女たちは一方的に見られる存在として描かれている。女たちが顔をあげ、鑑賞者の無遠慮な視線を咎めることもない。

そういう女たちの諦念や嘆きが、このうつむく蒼ざめた顔には見え隠れする。

鉄道

ホッパーの作品には移動や通過の感覚が漂う。ある場所に定住し、深く関わるというよりは、そこを通過する者、移動する者の視点で、ホッパーはアメリカの都市を、そして郊外を描いていった。そこは感情移入や共感といったものはなく、ホッパーはカメラのような客観的な視線で、マンハッタンやアメリカ北西部を写し取っていった。そして移動や通過の感覚は、鉄道の駅や線路を描いた作品に最もよく表現されている。

流れゆく景色

ただし、鉄道の騒音、乗車のざわめき、エネルギーに満ちた機械の力強さといったものは描写されず、そのかわりに人気のない駅や、列車のない線路が描かれている。こういった点で、他の画家たちは大きくことなっている。

過ぎ去りゆく時代

過ぎ去った時代の建築様式の家が、まもなく地面に崩れ落ちるかのような予感がある。すべてが滲み、人間の営為が時の流れとともに朽ち果てていく気配さわ、描かれた線路によっていっそう強められている。

そしてま鉄道も、20世紀に入り自動車の台頭に押され、その力を失い、斜陽の時代を迎えていた。時計の針の動きが徐々にゆっくりとなり、やがては完全に止まってしまう、そういう時の流れに、家や鉄道は呑みこまれてゆく。
 アメリカの風景が機械文明によって次々と急速に描きかえられていくその様子を、ホッパーは通過する者の視線によってとらえ、記録した。ただし、一つの時代の終焉につきものの、悲壮感や悲哀、あるいは不安はここにはない。
風景に向けられたホッパーの目は冷徹なまでに透明である。画家はただ、線路からやや離れて平行に移動し、次第に後方に過ぎ去っていく家を、そして線路を、自動車の窓外に見つめ続けたのである。

《線路脇の家》(1925年)
《貨物列車》(1928年)
《都市への接近》(1946年)

自動車旅行

場所の記述

この時代の自動車旅行者たちがその窓外に見たものは、遥かかなたの地平線、果てしなく続く平原や道路、道路脇の看板、電線、そして線路であった。彼らは機械文明の発展によって変容しつつあったアメリカの風景を心に刻みつけた。
 それは観光という行為による場所の記述と、新しいアメリカ的風景の誕生の瞬間だったと言えるだろう。自動車旅行者たちは、郊外や人里離れた自然の場所を訪れ、それをカメラに収め、そして目撃したものをポストカードの裏などに書き留めた。こういったものの蓄積から、イメージとしての場所が立ち現れてくる。
ホッパーの作品もまた、こうした「記述」の一つととらえることができるかもしれない。《ワイオミングのジョーン》では、ジョーが、窓外の自然の風景をスケッチする様子が描かれている。さらにその自然の風景は、自動車の窓枠によって、一枚の絵のように切り取られている。

《ドフィネ・ハウス》

自動車文化が支配的になりつつある中、時代の流れに取り残された場所に漂う寂寥感がここには表現されている。

モーテル

《観光客の部屋》が外部から宿屋の内部を覗くものであるのに対し、《西部のモーテル》は室内から外界をのぞむ構図を採っている。

ガソリンスタンド

《ガソリンスタンド》 

薄暗い森の中に道路は消えていく。道路は行き止まりなのかもしれない。文明が自然に再び呑みこまれていく様子がここには描かれているのである。

このガソリンスタンドは、ホッパーという自動車旅行者が心の中に刻みつけた、アメリカのどこかにあり、しかしどこにも存在しないガソリンスタンドなのである。それはイメージ上のアメリカの場所なのだ。

自然と文明

20世紀前半、自動車旅行者たちは、都市化や工業化時代の新たなアメリカの風景を目撃し、記憶にとどめていった。そして同時にその風景には、産業構造の変化によって、衰退しつつあった農村と、再び勢いを取り戻す自然も記録されることになった。ホッパーの作品にも荒廃する農村がしばしば登場する。ホッパーは、自動車の窓から見た荒れ果てた家屋が後方へと流れ去り、次第に小さくなっていく瞬間を描くことによって、自動車の移動と、時代の変遷という速度の異なる二つの時間の推移を表現した。

変わりゆく田園の風景

19世紀前半のアメリカ文化においては、雄大な自然や田園は、若い国家のアイデンティティの基盤として位置づけられていた。しかし、南北戦争後の19世紀後半以降、工業国家としてアメリカが発長していくにつれ、自然は徐々に風景の奥へと後退していった。森は開拓され、人間の生活空間が拡大していった。
村や街、そして近代都市が出現し、平原を横断する列車や大地を踏破する線路は、土地を二分し、動物たちを追い払い、駅とその周辺の町を生み出した。文明の自然への侵入は、人間や物資の移動によって加速度的に進んでいった。
一方で工業化が進むと、伝統的な農本主義は衰退し、農村は荒廃していった。さらに20世紀前半になると、天候不順や農作物の価格の下落、そして大恐慌といった要因がさらに加わり、農民の中には、棄農し、新天地へと移動する者も出てきた。その姿はジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』(1939年)にも描かれている。
 その結果、農村風景は変容していった。開墾地は荒れ、家屋は朽ち果てていった。遺棄された場所には再び雑草が繁茂し、動物が入りこみ、建物は廃墟となった。人間の営為の痕跡は徐々に消されていき、自然の中に呑みこまれていった。

《ケープ・ゴッドの夕べ》(1939)は迫りくる自然の不気味さが、追い詰められつつある人間とともに表現されている。

美術史家のロバート・ホップズは、この作品は時代の変化、進歩に取り残された人々や場所に焦点を当てたものであり、衰退しつつあった19世紀的生活様式と自然の衝突がそこには見られると指摘する。しかし、もはや衝突ですらないのだ。ホッパーの農村の景色では、人間や家はなすすべもなく無抵抗に消滅への一途をたどりゆく。

進み続ける感覚

《孤独》は自動車旅行者ホッパーの視線を明らかにするものである。前景から後景へと、地平線に向かって一本の舗装道路が描かれている。画面右端に描かれた道端の廃屋は、やがて背後に忍び寄りつつある深い森に呑みこまれるだろう。しかし車に乗ったホッパーは崩れゆく古い世界を横目に見ながら走り去るのだった。
 かつてホッパーは、「私にとって最も重要なものは旅を続ける感覚 (the senseof going on)だ。旅行している時、様々な事物がどんなに美しく見えるか、君も分かるだろう」と述べた。ホッパーにとってこの“旅を続ける感覚”は、文字通り自動車などによる物理的移動の感覚でもあり、そしてまた人生という旅を“ひたすら進み続ける感覚”でもあり、そしてアメリカといら空間において、物事が、時代が、“ひたすら推移する“感覚”だった。

画家は、自然そのものではなく、何らかの人為的要素を常に自然の風景に含めることによって、時間の推移を、あるいはその舞台となる近代アメリカという広大な空間を我々に見せようとしていたのだ。そのために、ホッパーはその絵画世界に、衰退産業であった鉄道やその線路、あるいはまた過去の様式の建物を登場させ、文明に飼い慣らされたかのように見えた自然が勢いを盛り返す様子を描いたのである。
 ところでこういった感覚は、同時代の写真家、ウォーカー・エヴァンズの撮影したアメリカにも見られる。エヴァンズは、大恐慌下の連邦政府のプロジェクトに参加した際に、南部の貧しい小作農たちとともに、時代の変化に取り残された農村や田舎街の光景をカメラに収めていった。《ルイジアナの大農園の邸宅》(1935年)には、19世紀の「古き良き」南部の残滓が写し取られている。黒人奴隷の労働に支えられた、白人の農園主の貴族的生活は、もはや見る影もない。画面中央の根こそぎにされた倒木は、失われた大農園とそこに暮らしていた人々の文化がもはや過去にすぎないことを暗示している。
 ホッパーの作品もまたアメリカという場所、アメリカという広大な空間を次々に通過していく物や人の重要な記録である。ただし、ホッブズが言うような、過去と同時に未来をも示すヤヌス的なヴィジョンはそこにはない。むしろ、ホッパーがリアウィンドウや、後部座席の窓に見た、過ぎ去りゆく時代の遺物がそこには示されているだけだ。過去のイメージの断片がそこには堆積していく。
 文化人類学者の今福龍太は、ホッパーと同時代のリアリズムの画家、アンドリュー・ワイエスを論じ、ワイエスは自己と「混ざり合い、溶解し、あるいは相互に終わりのない漂白と徘徊を演じた」土地、アメリカという場所を探索し、そして一体化することによって、アメリカ人としてのアイデンティティを確立しようとしたと述べた。ではホッパーはどうだったのだろうか。ホッパーもまた、ワイエス同様に、都市にせよ郊外にせよ、旅という「終わりのない漂白と徘徊」を繰り返し、そこで目撃したものをカンヴァスに記録していった。しかしホッパーは、ワイエスやリージョナリズムの画家たちとは異なり、一定の距離や冷静さをもってアメリカを眺め続けた。ワイエスは《春》(1978年)において、生まれ育った土地への愛着と、その自然との一体化を表現したが、ホッパーは土地に根差す感覚とは正反対の、通過や移動の感覚によって、アメリカという空間の変貌を記述していったのである。

《午前7時》(1948年)
《海辺の部屋》(1951年)

絵画空間の構造ーー構図や視点

ホッパーはアメリカの風景を独特の視角によって切り取った。特に都市風景画では、移動しながら見る、ある場所を通過しつつ後方に眺めやるといった視線によって構図が組み立てられている。ロパート・ヘンライ率いる「ジ・エイト」や、リージョナリズムの画家たちは、中心的な題材を画面中央に描いたが、ホッパーはそれとはことなり、いわば斜めから、都市のある場所のある瞬間を写し取った。そしてこういった視角や構図はフランス印象派の画家たち、中でもエドガー・ドガ(1834-1917)の作品を部分的に参照したものと考えられる。

ドガとホッパー

これまで見てきたように、ホッパーの作品では、消失点が画面中央ではなく、画面の端に寄せられた空間構成がしばしば見られ、また俯瞰や視の視点が多用されている。
例えば《ニューヨークの映画館》(1939年)では、消失点が画面中心ではなくやや左寄りに設定されており、そのため中心となる対象が明らかにされない。ホッパーが強調したかったのは、客席なのか、柱なのか、はたまた女性なのか明確ではない。この作品には、王ドガー・ドガの《室内》(1868-69年)の影響が見られる。ドガの作品の画面右端の男性が、ホッパーの作品では案内係の女のイメージに置きかえられており、ドガの作品の消失点の位置や、二分割された空間、そして光と影の劇的な対比といったものをホッパーは参考にしたと思われる。ドガのこの作品は1921年から1935年にかけてメトロポリタン美術館に展示されており、ホッパーが実際に作品を見て、詳細に研究していた可能性も指摘されている。
 俯瞰の視点に関しては《アメリカの村》(1912年)《ニューヨークの舗道》(1924-25年)、《都市》(1927年)といった作品を例としてあげることができる。フランス印象派の都市風景においても用いられている。

垂直と水平の対比

さらにホッパーの構図上の特色として、垂直線と水平線の対比がある。《日曜日の早朝》(1930年)では、窓枠、1階の店の壁、理髪店のポールの垂直線は、2階建ての、横に展開する建物の水平線がゅ逆に際立つような効果をもたらしている。《ホテルの部屋》(1931年)では、部屋の窓枠、カーテン、前景の灰色に塗られた壁、茶のキャビネットによって垂直線が強調され、水平方向への広がりが抑制されるため、画面空間に一種の閉塞感がもたらされる。この閉塞感はさらに一人旅をする女の心理状態をも暗示する。

垂直の帯によって画面空間が分断される構図もまた、ホッパーの作品には多く見られる。初期の作品《蒼い宵》(1914年)や《夏の夕暮れ》(1947年)では、垂直の帯が画面左寄りの位置に描かれ、画面空間が二分割される。このような垂直線が現れる構図はドガの《カフェの女たち、夕べ》(1877年)にヒントを得たものと考えられる。パリのカフェを描いたドガの作品では、三本の柱が画面を分割しており、左から二つ目の柱が女性客の背を分断している。

《蒼い宵》人物たちをほぼ正面から見る構図を取り、モチーフが横に並べられた、奥行きのない空間構成になっているのに対し、ドガは常連客たちを斜め上からの視線によってとらえ、画面右奥に消失点を設定し、空間に奥行きをもたらした。カフェの女の客を前景に据え、柱によって画面も分断しつつも、通りを隔てた向かいの建物を描きこみ、開放感を与えることによって、複雑な空間構成が実現された。
 この複雑な構図、つまり垂直線によって区切られたある空間内部が別の空間へと接続され、閉塞感と同時に開放感をもたらすような構図は、後期のホッパーの作品において頻繁に用いられた。例えば、《夜更かしの人々》(1942年)では、垂直の帯を持つガラス窓によって仕切られた明るい空間から、ダイナー奥の暗い通りや建築物を透視するという構図が採られており、ドガの構図からの影響が感じられる。《ブルックリンの部屋》(1932年)《都市の8月》
(1945年)などにも類似の構図が見られる。こういった空間構成には、しばしば、ある人物のプライバシーを覗き見るという窃視の視線が合わせて用いられている。

海景図

ホッパーの海景図にもまた、構図の妙がある。《背の高いマスト》(1912年)、《大うねり》(1939年)、《風下》(1941年)といった作品では、地平線の水平線を、部分的に切断するようなかたちで、ヨットの帆やマストが効果的に配置されている。海景図はともすれば、水平線に支配された退屈な構図になりがちだが、ホッパーはヨットやその配置によって、構図にアクセントをつけている。さらには遠近法による空間の奥行きを遮断するかのように、帆が描き入れられ、ホッパーの絵画の特質である平面性が部分的に強調されている。
こらいった海景図の構図は、ドガと同じくフランス印象派の代表的画家、エドゥアール・マネやクロード・モネの作品にヒントを得たものかもしれない。画家を志してロバート・ヘンライの画塾に学んだ際に、ホッパーはヘンライにすすめられてマネの作品のスケッチを頻繁にしていた。マネの《ボート遊び》(1874年)、《アルジャントゥイユ》(1874年)、モネの《サンタドレスのテラス》(1867年)といった作品は、港や浜辺、ボート遊びを主題としたものだが、マストや帆が画面空間の奥行きを阻み、カンヴァスの平面性を示唆する仕掛けとなっているからだ。

《都市》(1927年)
《ニューヨークの部屋》(1932年)
《ブルックリンの部屋》(1932年)

筆づかいや色、光と影

ホッパーの表現のスタイルは、画家として活動を始めた1900年代後半から1920年代初頭の初期と、中期以降の作品で大きく異なっている。特に筆触や色調に関しては、初期と中期の作品を比較すると変化が著しい。そして中期以降の作品では、印象派的な溶融する筆触や曖味な輪郭線、かすむような大気は見られず、むしろ澄んだ大気のもと、明暗の鋭い対比のうちに、人物や建物がくっきりとした輪郭をもって描かれている。こうしてアメリカという場所の性質は、ホッパーの絵画において抽出され、濃度を増して蓄積されていった。

フランス印象派の影

初期の作品には、その特徴としてフランス印象派の筆触や色調の影響が見られる。1906年から1907年にかけての最初のパリ旅行時に制作された作品は、筆の痕跡がはっきり分かる、スケッチ風の明るい色調のものが多かった。
例えば《6月の午後/春の午後》(1907年)、《ポンデザール》(1907年)といったパリの風景を描いた作品では、クロード・モネやエドゥアール・マネの作品に見られるような淡い色彩と、絵の具のボリュームが感じられるような、筆触をあえて残したタッチが見られる。セーヌ川の川面やその川岸に揺れる樹々、あるいはルーヴル美術館の建物の屋根は、スケッチ風のタッチで描かれ、物体としての輪郭が曖昧である。また、ポンデザールを行きかう人々も一筆でさっと描かれており、モネがトルヴィルを描いた一連の海景図、あるいは《セーヌ川にかかるアルジャントゥイユの橋》(1874年)などの影響が感じられる。
 1900年代後半のヨーロッパへの留学はホッパーのスタイルの確立に複雑な影を落とした。ホッパーは帰国後、1910年代から1920年代前半にかけて、画家としての評価を得ようとし、多様な主題と様式に挑戦し、試行錯誤を繰り返した。パリに加えて、ニューヨークの都市風景や、アメリカ北東部沿岸の海辺の街、列車から眺めたニューヨーク郊外の街といった主題を、時に印象派風に、時にアカデミックな写実的な様式で表現した。

スタイルの変化

ホッパーの筆触と色調は、大気の透明さと光の強さを表現すべく、印象派的技法から脱却し、色調のコントラストがはっきりした、絵の具の物質性をあまり感じさせない平らなものへと徐々に変化をとげていった。

光と影

フランス印象派の絵画では、屋外の自然光に照らされたモチーフは、画家の手でいったん色彩の斑点へと融解され、観る者の網膜の上で再び結像する。一方で中期以降のホッパーの絵画空間においては、光と影の強いコントラストのもと、人間であれ、建物であれ、自然であれ、描かれた対象はくっきりとした輪郭を与えられ、大気は透明である。ホッパーは、光と影の鋭い対比を生む夏の焼けつくような午後、強い陽光の早朝、そして物体が長い影を生み出す夕方をより好んで取りあげた。あるいは光そのものを描こうとしたとも言える。特に晩年の作品には、強い日差しに照らされた人間や家をモチーフとしたものが多い。《真昼》(1949年)、《ケープ・コッドの朝》(1950年)、《日差しを浴びる女》(1961年)《陽光を浴びる人々》(1960年)などがその例である。こういった作品の光の強さはその影の濃さによっても示される。
 中でも二階のテラスの若い女と年配の女性を描いた《2階の日差し》(1960年)に関してホッパーは、多くの批評家が指摘するような、二人の女性の年齢差についての解釈は無意味で、「建物や人間に当たる日光に関心がある」と述べた。この作品は「陽光を、ほとんど黄色い顔料を混ぜない白い絵の具をもって、白いものとして描く試みである」と語っていた。

都市の暗闇

こうした自然光の織り成す光と影の鋭い対比は、ホッパーの描いた、人工の光に彩られた都市の夜景においても見られる。近代の都市では、陽光にかわって人工の光が、夜の暗闇とのせめぎあいを演じ、都市を歩く者は、暗がりに唐突に侵入してくる部屋や店の電灯の光に驚かされる。光と夜の闇が作り出す劇的な明暗の対比は、ホッパーの構図に緊張感を与え、絵画空間を活性化させる。
《夜更かしの人々》(1942年)の光にあふれるダイナーと周囲の街路や建物の暗がりの対比は、ダイナー内部のカップルと、一人こちらに背を向けてカウンターに座り、その背に孤独の影を負う男性との対比に連動する。《夜の窓》
(1928年)の室内の明るさとそれを取り囲む暗闇の対比は、窃視の緊張感を高める。ホッパーは眺める対象一ー半裸の女性の後ろ姿ーーを強い光のうちに浮かび上がらせ、一方でこの光景を目撃する者が、女性に気づかれることなく、暗闇のうちからその私生活を密かに覗き見る構図を作り出した。窃視の共犯者となった我々鑑賞者が、禁断の光景を、息を潜めて眺めるその瞬間の緊張感が、光と闇との対比によっていっそう増すのである。

《セーヌ川の谷》(1909年)
《ケープ・ゴッドの朝》(1950年)
《日差しを浴びる女》(1961年)
《2階の日差し》(1690年)

『エドワード・ホッパー作品集』江崎聡子/著

https://www.newyorker.com/magazine/2020/06/08/edward-hopper-and-american-solitude