森はいかに考えるのかを理解するための第一歩は、何かを表象するとはいかなることなのかを、これまでのように考えるのをやめることである。私たちの想定に反して、表象は実際には規約的、言語学的および象徴的なもの以上の何かである。
そのことを成し遂げるには、人間的なるものを超え出ることになる。非人間的な生命形態もまた世界を表象する。このより拡張的な表象の理解を見定めるのが困難なのは、私たちの社会理論ーー人間主義者であれポストヒューマニストであれ、構造主義者であれポスト構造主義者であれーーが言語と表象を混同しているからである。
人間の言語が働くありようの想定に従って表象が働く仕方を考えてしまう傾向にあるという意味で、私たちは、表象と言語を一つにしてしまっている。言語的な表象は、互いに体系的に関係づけられ、また言及される対象に「恣意的に」関係づけられる、規範的な記号に基づいていることもあって、私たちは全ての表象過程がこうした特性をもっているのだと見なす傾向にある。
パースの用語法では、(広範な用語として)これらのほかの様態とは〔表象する事物とのあいだに類似がある記号を含む)「インデックス的」である。私たち人間は象徴的な生きものであることに加えて、これらの記号論的様態をほかの全ての非人間的な生命と共有している。
記号は言語外的なものでありうるのだけれども、記号を意味あるものとする文脈は人間的で社会文化的なものとなる。
これらのアプローチが見落としているのは、記号もまた人間的なるものをはるかに超えて存在すること(私たちが人間の記号過程を考えるべき在り方をめ変える事実)である。生命は、構成的に記号論的である。つまり、生命とは隅々まで、記号の過程の産物なのである。
いかに人間的なるものがそのかなたにいるものから区別されると同時に連続するのかを分析する適切な道を切り開くことは、極めて重大で喫緊の課題となる。
つまり、異なった諸々の世界観ではなく異なった諸々の世界がある。しかし多元的な実在性についての認識は、問いを横にそらすだけである。問題になるのは、人類学は、世界が存在する仕方について一般的な事柄を主張できるのだろうか、ということではないか。
これから論じるように、部分的には、一般性そのものは世界の特性であって、私たちが表象について抱いている前提を考慮すると、そのような主張はし難いように思われる。
すなわち、非人間に真剣に向きあうことによって、人間学の問いから次の制約を外すことが可能になる。人間がある特定の時間と場所において、いかに非人間を理解するようになるのか、ということに対する認識論的な関心という制約である。
収集することはそれ自体の諸構造を森の関係性に課すことである。
ある出会いに出くわすこと、これらの振り返りを振り返ること、ルナ・プーマが私たちに求めることに向きあい、また応答を練り上げるひとつの試みである。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳