>> 戦争について”考えない”、その言説は他者において考えざるをえない。矛盾することで忘却するしか平和への道はないのだろうか。
はじめに
ひとはものを考えないときに平和を感じる。しかしなにも考えないと愚かなことをする。
政治への切迫こそが平和にとって最大の脅威になることを、いったん自覚しなければならない。
第1部 平和について
平和について考えるとは、「考えないこと」について考えるということでもある。
政治的な思考停止の領域についての合意の広がりこそが、ある社会が平和と呼ばれるべきか否かを判断するうえで重要な指標になるべきだと考える。
戦争が変えてしまうのは、まさにそのような領域の広がりである。
平和を平和として維持するためには、社会は、人々が政治について考えなくてもよい領域を広く確保し続けなければならない。
戦争を止めるのも政治
戦争を避けるのも政治
平和が本質的に政治とあいいれない概念だからこそ、それを政治によって確保しようとするのではないだろうか。
共生の平和
隔離の平和
平和が成立するためには、それを支える裏方が必要
ヨーロッパ人はバルカン半島を美化し、同時に悪魔化していた。だから民族浄化のような戦争犯罪もあいまいに「理解」されてしまっていた。ジジェクはその差別的な視線にこそ苛立っている。
クストリッツァは共生の崩壊は悲劇だと考える。だから平和の記憶を幻想として描き出す。
クストリッツァには現実がない。現実を覆い隠す夢しかない。それはすでにジジェクによって三〇年近くまえに指摘されていた。
平和には弱点がある。その記憶はつねに訂正される可能性がある。
平和の記憶はつねに訂正可能性に開かれねばならないということを意味している。
◉平和と愚かさは不可分に結びついている。平和とは考えないことが広く許されるということなのだから、それはすなわち愚かさが広く許されるということである。
だから平和は本質的に加害の可能性に結びついている。
平和ボケはときに無自覚な加害者になることがある。「考えないこと」を許す環境の偏りに気がつかないことがある。
社会の隅々にまで「考えないこと」が広がっていた。しかしその果実を享受し消費社会を謳歌することができた人々は、じつのところ世代や性差や階級で限られていた。
平和は愚かだ。それゆえ平和の記憶はつねに告発に開かれている。
共生の空間は加害と被害の敵対的な空間へと変質し、平和の記憶は愚かさの肯定に反転する。
批判はなぜ届かないのか。それは、そこで問わているのが、ほんとうは事実の問題ではなく心の問題だからである。
平和がかつて存在したこと、少なくとも自分たちはそのように記憶していること、その記憶ぐらいは訂正しないでくれと願う。
*「考えないこと」は堕落ではない。思考停止が必要になるときがある?
その限定化の一例はどういった状況、経緯から派生するのだろう?
◉ひとはつねに歴史を訂正している。「かつて考えなかったこと」を「いま考えていること」で塗りつぶしている。
◉「考えないことを記憶すること」
◉人はつねに「考えないこと」と「考えること」のあいだに引き裂かれている。そして、平和は、「考えること」だけで達成されるものではなく、「考えないことを考える」という逆説を通り抜けることによってのみ、到達できる状態なのである。
シュミットは、第二次大戦が終わってまだまもない時点で、平和を維持するために正義ではなく忘却が必要だと主張していたのである。
この文章が書かれたとき、冷戦は始まったばかりで、イスラエルも建国したばかりだった。
忘却について考えることは、平和について考えることと同じようにむずかしい。忘却もまた思考不可能なものだからだ。
◉忘却から始まる正義や責任がありうるだろうか。それは語彙矛盾に響く。しかし、裏返せば、だからこそこには新しい思考の課題があるのかもしれない。
◉ぼくたちは、なにも考えず、すべてを忘れているときに、おそらくはもっとも平和を感じることができる。
ものごとは記憶すればいいだけではない。記憶は永遠の訂正可能性につながっている。つまり永遠の闘争につながっている。
◉ひとは考えると友と敵をつくる。
◉アウシュヴィッツのあとに詩を語るのは野蛮だ、とアドルノは言った。
◉平和は詩でつくられる。詩は愚かだ。暴力的でもある。しかしその愚かさを失ってしまえば、ぼくたちは結局のところ永遠の戦いに閉じ込められるだけだろう。
停滞する思考
第2部 ウクライナのまわりで
哲学や批評という言葉は、いまではすっかり、小さく個別的な問題を、慎重に(ときに政治的に)まちがいのないように検討する、専門的な技法を意味する言葉に変わってしまった。
問いへの接近そのものが困難なのだ。
実際に現代の哲学と批評の多くは、もはや引用と参照文献に取り囲まれたじつに窮屈な思考しか展開できなくなっている。
数と意味の対立はありふれている。
現代人は、物を物として、世界を世界として受け取ることができなくなっている。かわりに、世界にあるすべての物を算定し、対象化し、資源(Bestand)として捉えるようになっている。
「制作して立てるはたらき」herstellen
「徴用して立てるはたらき」 bestellen
「総かり立て体制」 das Ge-stellen
すべての物は、つねなにかほかの目的のための素材として捉えられ、「代替可能」な断片の集合であり、「どうでもよいもの」でしかなくなってしまう。人間もまた例外ではない。「人間は、徴用物資を徴用して立てるはたらきの内部では、取り替え可能である」。そこでは「存在の意味」は「忘却」される。ハイデガーの考えでは、絶滅収容所の誕生は、その忘却の必然的な帰結にすぎない。
数値化の暴力とはbestellenの力のことである。
「存在の意味の忘却」 ハイデガー
記憶の限界
「歴史の終り」の認識は、[……]「現実性」からの逃亡であり、ロマン派的な拒絶である」
柄谷行人
世界のあらゆる場所で、大量死のうえに大量生を築いている。
そして核戦争に備えた秘匿通信網のうえにインターネットを築いている。その二重性はおそらくは、戦争の世紀であり、同時に大量生産と大量消費の世紀だった二〇世紀という特異な時代に続く、二一世紀の逃れられない運命である。
ぼくたちはつねに、地下=無意識の水脈に微細に気を配る必要がある。
忘却と追悼を対立させ、悪を物語化することで満足するのではなく、悪の浅薄さと卑小さも記録すること。
◉忘れるのでも、非難するのでもなく、「考える」こと
その選択はとても抽象的で哲学的だけれど、しかし同時にきわめて政治的で、具体的なものである。
アウシュヴィッツと広島とチェルノブイリを、善意や悪意の有無には関係なく、加害と被害のつながりが壊れてしまった悪=害として連続的捉える。
現代社会が直面しているさまざまな破局(カタストロフィ)は、人間によってでも自然によってでもなく「システム」によって生み出されるというのだ。
悪はときに行為の連関が壊れるなかで生じる。
集団の記憶は、ときにそのようにして個人を超える。
個人はたしかに賢くなる。けれども◉群れは賢くならない。なぜならば群れはつねに若返り続けるからである。新しく愚かな個体が補充され続けるからである。
「ウクライナがナチとソ連の犠牲者を名乗っていればよい時代は終わったはずだが、独立後いまだに政権の安定しないウクライナは、自国史の過去と行方を検証する重い課題を背負いきれないでいる」『ガリツィアのユダヤ人』
加害と被害の関係は入り組んでいる。犠牲者の連帯がつねに正義を生み出すわけではない。
ぼくたちはふつう戦争と平和を対立させている。いいかえれば政治と文化を対立させている。
戦時下においては、単純な戦争肯定も否定も、どちらも平和にはつながらない。その二律背反から始まる、新しい平和論が求められるはずなのである。
第3部 断章
人間はたがいを顔をもった存在と認識しなくても生活が営めるようになった、それこそが大量殺戮を可能にしたという理解が支配的になったのである
ひとはものを考えすぎるとバラバラになる。とくに政治は人間集団を必然的に友と敵に分ける。
したがって社会の全体を人間の論理み基づいて制御し、すべてを政治的な判断に還元しようと試みると、かえって社会全体が壊れることがある。
人文学は幻想を扱う。消費社会は人々に幻想を与える。
ひとは、表より裏を見るほうが有益で、幻想よりも現実を見るほうが本質的だと考える。
◉戦争が存在するのは、戦争が消えるためなのだ。
ある種の現実は、現実の論理だけを貫徹すると自壊することがある。だから幻想を必要とする。
◉消費者は世界を配慮しない。生産者は世界を配慮する。
フーコーの経験的 – 超越論的二重体をめぐる議論は、このカントの哲学を範例としている。
なぜ世界がこのようになっているのか、その理由を探求する必要に迫られた。ひらたくいえば、目のまえに見えている世界に対して、つねにメタレベルでツッコミを入れ、疑いの視線を向ける。そのようなメンタリティが尊ばれるようになった。
哲学には実体はなかった。真にも善にも美にも実体はなかった。
いま世界で起きているのは、ひとことでそういう事態である。
現代においては、どんな学識溢れる知識人も、自分の専門領域以外においては頭の悪い大衆=消費者のひとりになってしまう。
◉いまはむしろ大衆しかいない。皆が消費者になる。
客が存在しなければ裏方も存在しない。裏方がものを考えるのは、客がものを考えないようにするためだ。
ぼくたちはむしろ、客であること、動物であること、「ものを考えないこと」の意味を考えなければならない。
世界があまりに高解像に見えてしまうと、配慮そのものが不可能になる。
配慮の行為を続けるためには、見える世界を限定する必要がある。つまり「ものを考えない」場所をつくる必要がある。
左派はつねに世界への配慮を要求する。怒りや参加を要求する。
世界はあまりに複雑かつ広大で、ぼくたち人間の能力はあまりに限定されている。
裏方と客を切り替えること。「ものを考えない」ために考えること。
『平和と愚かさ』東浩紀/著より抜粋し、引用。
>>「ものを考えない」場所は「わたし」から遠ざかり「わたしたち」から解放される場なのでは?
いつまでも「考えること」に否定的なのは、誰かに考えさせられてきたというだけ、“考えないでいる”ことと、“考えられないこと”は異質、
いずれにしろいつしか考えざるをえないってことは多角的に「かんがえる」しかない?!
追記 : 感性と慣性
瞬時にしか「平和」を実感できない人に「愚かさ」を自覚させることこそ難しい。プーチン – ネタニエフ – トランプに多くの政治家に限らず知識人が無力なように、、、