第十二章 カリスマは不作法になる
礼儀正しさとは、人が自分を他の人々に重荷として感じさせないときに成りたつものである。カトリックの教義のなかで「カリスマ」という語のもっとも古い用法の一つは、このような礼儀正しさを宗教の観点で定義したものだった。
宗教的意味を失ったときに、カリスマは礼儀正しい力ではなくなってしまった。
強力な個性が強力なのはなぜだろうか?前世紀の個性の文化は、この質問に人が何をしたかというよりも何を感じたかに焦点を当てて答えた。もちろん、動機は良いこともあれば悪いこともあるが、前世紀において、人々は動機を善悪では判断しなくなった。ある人の内的衝動のまったくの暴露が刺激的なものになった。もし人が公の場で自分をさらけだして、かつ自己開示の過程をコントロールできるならば、彼は刺激的であった。人は彼を力強いとは感じたが、その理由は説明できなかった。これは世俗的なカリスマーー精神のストリップショーである。明かして見せるという事実が刺激するのであって、明確で具体的なことは何も明かされない。強力な個性に魅せられた人々自身は受動的になり、感動している自分たち自身の必要を忘れてしまう。こうしてカリスマ的指導者は、昔の礼儀正しい教会の魔術以上に、彼の聴衆をより完全に、より神秘的に支配するようになった。
カリスマ的指導者は、厄介な問題やイデオロギーの不和を生ずる問題を避けながら、政治が円滑な道筋へと入っていくための代理認識なのである。
普通の生活では、衝動とコントロールとは衝突しているように思われ、この衝突は前世紀に君臨していた、不本意な、コントロールされない感情表現の信念に由来するものである。こうして、政治家は職務において何もしなくても活動的な人物に見えることができる。
カリスマの理論
つまり、カリスマ的人物とは従える者の感情を強力に監督する者であり、強い感情を扱う、支配する人物である、というものである。宗教における〈恩寵〉は本当は幻想であるがゆえに、カリスマ的人物は社会の「不合理」なものと通じているのである。
……大衆は怠惰で無知である、本能の断念を嫌い、議論によってその不可避なことを納得することはない、そして個々人が気ままにほしいままにするのを互いに支えあっている。
断念は宗教の仕事である。宗教は、生存の理法と社会の正義が超人間的な源泉から来るものであり、したがって人間の理性や人間の疑問を超えているという信念を生みだす。
フロイトは社会における幻想の秩序に対する関係についてヴェーバーとは異なった見方をした。「われわれは信念を幻想とよぶ」とフロイトは書いた。
外側にある真理の基準に関係のない依存性、恥による依存性、受動性を生む依存性ーーこれらの宗教的な父親像の特徴と思われるものはすべて世俗的なカリスマ的個性の特徴だった。
合理性そのものがみて感じられるものの経験的真実によって測られるときは、その行為は、普通の経験では、非合理性の一形態なのである。
カリスマと恨み
それは何か新しい秩序への傾倒というよりも、むしろ現存する秩序への純粋な恨み、ルサンチマンなのである。
一つの奇妙な共謀の理論がルサンチマンに由来しているーーつまり、社会の最上層と最下層が結託して、中間の者たちを撲滅しようとしている、というのである。
かくして、もしあなたが現に下のほうに置かれているとすれば、あなたに地位がないことは自分のせいではないのだ。
世俗的カリスマの重大な点は、政治家が観衆に劣らずこの逸らす瞬間を信じているという事実にある。
政治家は幻想を聴衆ばかり自分自身にもかけるという点で、このカリスマは必然的に幻想なのである。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳
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