mitsuhiro yamagiwa

第十四章 芸術をうばわれた俳優

 社会は劇場であり、すべての人は俳優である。

 理念としとは、このヴィジョンは決して死んでいない。

 劇場的世界のイメージは社会のなかでの表現の可能性を示している。公的生活が侵食されたことは、この可能性に実際に何が起こったかを示している。

 人は自分自身で演ずることをやめてしまったのだ。

 公的な世界における表現は、提示する人が誰であろうと、感情の状態や調子をそれ自体がもつ意味とともに提示することだった。親密な社会での感情の状態の表示は、感情の内容を誰がそれを投影しているかに依存したものにしているのである。感情の提示は、死は誰が死のうとしているかに関係なく意味をもつという意味で非個人的なものである。しかし、自分自身に起こっていることを他の人に表示することはその人の特異なものである。家族の死を別の人に告げるときは、その死のためにどのような気持ちになっているかを相手が見れば見るほど、その出来事そのものが相手にとって力をもつようになるのである。こうして、人間性への信頼から人のそれぞれの性質への信頼への動き、自然な性格という考えから、個性という考えへの動きがあったのだ。

 感情の提示と表示の違いは、本質的に感情を豊かに表出しているものとしていないものの違いではない。相違はむしろ、人々が特定の芸術の力に訴えることができる感情の処理とそれができない感情の処理とにある。感情を提示する作業は俳優がする作業員に通じている。それはいったん形を与えられれば意味をもつ感情の調子や状態を別の人に明らかにすることである。

 しかし自分の個性を査問するとなると、俳優の能力は簡単には期待できない。というのは、この査問は一つの人生のなかで固有の唯一のものを査問するのであり、瞬間瞬間で意味は変わり、エネルギーは感情を他の人々にはっきりと明らかにすることよりも、むしろ自分が感じているのは何かを発見することに向けられるからである。

 公的な表現の条件が社会で非常に侵食されて、劇場と社会がフィールディングが言うように「見境なく」絡み合っているとはもはや考えられなくなったとき、演技する芸術を奪われた俳優が現れてくる。一生のあいだ人間性を経験することが、自我の探求によってとってかわられたとき、それが現れるのである。

 今日われわれはその結果を生きているものの、喪失の過程そのものは何も知らないのだ、とほのめかしている。実際は、今日の人々のライフサイクルのなかで、この喪失はまた小規模な形で起こっているのである。

 成人文化をつくっている不安と信念へと引き入れられるにつれて、成長していく人間はまた子供時代の力を失っていくのだ。

 遊びは子供にとって内発的に自分を表現することとは正反対なのだ。

 子供たちにルールによって支配されている非個人的状況に多くの激情を注ぎ込むように、そしてその状況のもとでの表現は、より大きな楽しみを得、他の人々との社交性をいっそう高めるべく、それらのルールを作り直し、完全なものにすることの問題であると考えるように仕向ける原理である。これが遊びなのだ。これと衝突するのが成人文化の現状を支配するようになった原理で、大人に自分自身の行動の動機や接触する他の人々の動機を暴くことに多くの激情を注ぎ込むように仕向けるものである。こうした内的な理由や真正な衝動の発見は、人々が抽象的なルールに邪魔されたり、「決まり文句」、「類型的な感情」、あるいは他の慣習的なしるしといったもので自分を表現するように強制されることが少なければ少ないほど、より自由であると認められる。この探求の真剣さを特徴づけるのはそれに取りかかることの困難そのものである。

 この成人文化を支配している精神の原理はナルシズムである。

 こうして、芸術を抜きにした俳優がいかにして出現したかを探ることで、われわれは遊びとナルシズムの衝突というイメージに達する。ナルシシズムの勢力は、いまや文化によって動員され、人間が成長し、「現実」に足を踏み入れる以前にはもっていた、遊ぶ力をくじくのである。

『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳