mitsuhiro yamagiwa

2023-06-10

感情と我性

テーマ:notebook

三 弁護と批評

a 神と悪

 悪と善は決して根源的な対立ではないが、何よりもまず二元性をなすものではないからである。二元性とは二つの存在者が実際に相対時しているところに存する。しかるに悪はなんらの存在者ではなくして、対立においてのみ一つの実在であり自体においてはそうではない或る非本質的存在者〔Unwesen)である。また絶対的同一性も、すなわ愛の精神も、悪がそれとの対立のうちに初めて現われ得るというまさにその故に、悪よりも以前のものである。

b 汎神論であるという非難に対して

 われわれは、時代及び時代のうちにあるものを自分なりに理解できるようにする、各人各人の遣り方を許すに吝かではない。名前はどうでもよい、事柄が問題である。

 人間のみが神のうちにあり、そしてまさにこの神ー内ー存在によって自由であり得る。

 人間のうちに万物が創造され、また神は人間を通してのみ、自然をも受け入れてみずからと結びつけるのである。自然は第一の或いは旧い契約である。

 人間のうちに成就される言葉は、自然のうちでは、暗い予言的な(まだ充分明確に発言されない)言葉として存する。自然そのもののうちでは解釈をもたず、人間を通して初めて開明されるところのもろもろの前兆もここよりくる。

 体系のうちにおいては、各概念はその特定の位置を有していて、そこではその概念のみが妥当し、そしてその位置がまたその概念の意義ならびに制限を規定しているものである。

 無底あるいは無差別のうちにはなるぼとなんら人格性はない。

 むしろわれわれはどこを見ても、彼らが神の人格性を不可解なもの、いかにしても理解できるようにはなし得ないもの、と称しているのを見出すのである。

c 理性と感情。精神と理性

 これらの考察はわれわれの出発点につれ戻す。最も神聖なる諸感情に矛盾し、心意や道徳的意識に矛盾する体系は、少なくともかかる性質においては、決して理性の体系とは称せられ得ずして非理性の体系とのみ称せられ得るものである。これに反して、理性がそのうちに実際に自己自身を認識するような体系は、精神と心情とのすべての要求、最も道徳的な感情と最も厳しい悟性とのすべての要求を合一させねばならないであろう。

 なんとなれば、いかに高い位置に理性を置くとはいえ、われわれも例えば誰かが純粋理性から有徳になり、或いは英雄になり、或いは総じて偉人になる、とは信じない。

 人格性のうちにのみ生命がある。そしてすべての人格性は一つの暗い根底の上にもとづいており、従ってこの根底は勿論また認識の根底でもなければならない。しかし、この根底のうちに隠された単に潜勢的に含まれているものを形成しだして、現勢にまで揚げるのは、悟性のみである。

 やっと感情というところまで漕ぎつけただけの我性は、決してわれわれの信頼を贏ち得ることはできない。感情は根底にとどまっている時は優れたものであるが、それが明るみに出てきて、みずから本質となって支配しようとする時には、そうは言えないのである。

 反省は理念に対して敵対的であると言われる。

 哲学(愛智)もその名を、一方では普遍的に神来を与える原理てしての愛から、他方ではその本来の目標であるこの根源的智慧から得ているのである。

『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳