意識の範囲
私たちは対象を意識しないままに様々なものに間断なく反応している。
ところが私が意識しているのは、伝えようとする内容と、それが明確に伝わるかどうかの二点だけだ。
私たちはたえず事物に反応しているが、それがどのように行われているかについては、いっさい意識に上らない。いかなる場合にも、だ。
意識が心の営みに占める割合は、私たちが意識しているよりはるかに小さい。というのも、私たちは意識していないものを意識することはできないからだ。
私たちが意識を働かせている時期は、自分で思っているほど長くない。意識を働かせていないときのことは意識しようがないからだ。
盲点の周囲の空間が少しも欠落せずに埋められるのとまったく同じように、意識は自らの時間的な欠落を継ぎ合わせて、連続していたいという錯覚を与えるのだ。
日常的な行動を私たちがいかに意識していないかを示す例は、いたるところにあふれている。中でもピアノの演奏は、その最たるものだ。
短距離走者は、競技中に自分と他選手との位置関係は意識しているかもしれないが、片方の脚はもう一方の脚の前に持ってくることに意識を働かせていないのは確かだ。
話をする場合にも同じことが言える。話ながら、すべての音節を一つひとつ完全に意識のしてみればよい。きっと話せなくなってしまうだろう。
これは、話したり書いたりしているとき、私たちがほんとうは、実際に行なっている行為を意識していないのだ。意識は、いつ何をどのように言うべきかという判断においては機能するが、その後はどうしたことか、音楽や文字が勝手に秩序正しく生み出されてくる。
意識は経験の複写ではない
私たちの多くは、意識のおもな機能は経験を蓄積し、カメラのようにそれを複写することにあり、そのおかげで後々私たちは過去の経験を思い返すことができるのだと断言するだろう。
つまり、初めから知っていたが、意識はしていなかったのだ。これが心理学者の間ではよく知られている、「再認」と「再生」の相違だ。意識的に「再生」できるのは、実際の知識の果てしない大洋に比べれば、ごくわずかでしかない。
意識的な追観とは、心象の想起ではなく、以前に意識を向けたものの想起であり、そうした要素を理性的なパターン、あるいはもっともらしいパターンに再構成することにほかならない。
意識は概念に必要ではない
私たちの周囲にあるのは個々の木だけであって、「木」という一般概念は意識の中にのみ存在するというのだ。
概念とは、行動的に見て同価値の事物の分類にほかならない。根本概念は先験的なもので、行動を生じさる〈性向決定構造〉の根幹を成している。
実際のところ、意識は概念の貯蔵庫でないばかりか、通常は概念とともに活動してさえいないからだ。
実際、単語に概念を象徴させるというのは、言語の持つ重要な役割の一つで、それはまさに、私たちが概念的な事柄を書いたり、話したりするときに行なっていることにほかならない。通常、概念は意識の中にはいっさい存在しないため、このような必要が生じてくるのだ。
意識の在りか
しかし、この「見詰める」とはいったいは何を意味しているのだろう。私たちはより鮮明に内観しようとして、目を閉じることすらある。だが、どこを見ているのだろう。意識が空間的な性質を持つ点については、疑問の余地がないように思われる。
私たちはこの意識の空間が自分の頭の中にあると考えるだけでなく、他人の頭の中にもあると信じている。
そのときつねに、私たちは相手の目の奥に空間があることを前提にして、そこに向かって話している。その空間は、自分の頭の中にあって、そこから自分が話していると想像している空間と同じものだ。
そしてここに、この問題の核心がある。というのも、私たちは誰の頭の中にも、そんな空間はないと重々承知しているからだ。私の頭の中にも、何らかの生理組織があるだけだ。そして、その大部分が神経組織だという事実など、完全に度外視されている。
ほんとうは意識の在りかたなどない。ただ私たちが、勝手にあると想像しているだけなのだ。
『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ/著、柴田裕之/訳より抜粋し引用。