9 バートルビー
カントは可能性の図式を《ある事物の表象をなんらかの時間について規定すること》と定義している〔『純粋理性批判』〕。
アリストテレスによると、あらゆる可能態は二つの様相に分節されるという。これら二つの様相のうち、いまの場合に決定的のは、彼が《存在しないことの可能性》、あるいは無能力(adynamia)と呼んでいるものである。
存在しないでいることができる存在、自ら無能力であることができる存在こそ、本来、なんであれかまわない存在なのである。
ここでは、いっさいが可能態から現実態への移行が生じるさいの様式にかかっている。
そのときには、能力でもあれば無能力でもありうるような能力のみが至上の能力であることになる。
もしあらゆる能力が存在することの能力であるとともに存在しないことの能力でもあるのであってみれば、行為への移行は自らが有している存在しないでいることの能力を行為のなかに搬入することによってのみ(アリストテレスは《救済することによって》と言っている(『魂について』)生じうるのである。
もし思考があれやこれやの可知的なものを思考する能力にすぎないのであったとしたら、そのときにはーーと彼は論じているーー思考はすでにつねに行為のなかに移行してしまっていて、自らの対象にたいして必然的に劣位の状態にとどまったままでいざるをえなくなってしまうだろう、と。しかし、思考は本質的には純粋の能力である。すなわち、思考しないでいる能力でもある。そして、そのようなものとして、可能的な知性あるいは質料的な〔物質的な〕知性として、それはアリストテレスによって何も書かれていない書板になぞらえられたのだった(これはラテン語の翻訳者たちがtabularasaという表現をあたえた有名なイメージである。
思考が自分自身に(その純粋の能力に)向かうことができ、その絶頂点において思考の思考であることができるのは、この思考しないでいる能力のおかげである。しかしまた、ここでそれが思考しているのはあるなんらかの対象、行為している存在ではない。
自らを思考する能力のなかにあって、能動と受動は一体のものとなる。そして書板は自らひとりでに書く、あるいはむしろ、それに本来的なものである受動性を書くのである。
完全な書記行為は書くことの能力からやってくるのではなく、無能力が自分自身へと向かい、このようにして(アリストテレスが能動知性と呼んでいる)純粋の行為として自らに到来することからやってくる。
バートルビー、すなわち、ただ書くことを止めず、しかしまた《書かないでいることのほうを好む》筆生は、自らの書かないでいる能力以外のものは書かないこの天使の極端な像にほかならない。
10 取り返しがつかないもの
取り返しがつかないというのは、事物が手の施しようもなくそれらがそんなふうに存在している状態に引き渡されてしまっていること、いやそれどころか、事物とはましくそれらがそんなふうであるしかないことを意味している。
しかしまたそれは、事物にとっては、文字どおり、どんな避難所もありえないということ、それらがそんなふうであるなかで、事物はいまや絶対的に表にさらけ出されており、絶対的に見捨てられているということをも意味している。
世界はいまや何世紀にもわたって必然的に偶然的なものであり、偶然的に必然的なものである。必然性の命令に裁可する存在しないでいることはできないと揺れ動く偶然性を定義する存在しないでることができるとのあいだにあって、終わった世界は後者の能力に、どんな自由を基礎づけることのないようなひとつの偶然性を忍びこませる。その世界は存在しないでいるのではないことがありうるのである。取り返しがつかないものでありうるのである。
動物も、草木も、事物も、最後の審判以後の世界のすべての四大と被造物は、自分たちの神学的任務を果たし終えて、いまや、こう言ってよければ堕落しえない堕落を享受するのであり、それらのものの上にはなにか神聖ならざる光背のようなものがぶらさがっている。
『到来する共同体』ジョルジョ・アガンベン/著、上村忠男/訳より抜粋し流用。