5 至高の動物ーーバタイユ
機械は自分の生存を心配しない。しかし動物と人間は心配する。
労働を拒否することは、弱さ、病気、強さと規律の欠如とみなされうる。しかし人は労働の工程によっては吸収され得ない、生命力とエネルギーの過剰を持っているがゆえに、労働を拒否することができる。このエネルギーの過剰は、決まりきった労働とケアのシステムに対する反抗へと人間を向かわせる。
大いなる健康と退廃の間のニーチェの区別は消滅する。両方とも過剰な消費と非生産的なエネルギーの浪費を含む、過剰なあらわれとなる。
与える人がより気前が良いことは、より高い地位にあることを示す。したがって贈与は攻撃の形式、権力への意志の表明なのである。贈り物の価値は、受け取る人にとってこの贈り物の有用性とは無関係であるとみなすことが重要である。
確かに、太陽から送られるエネルギーの総量は、返礼されなければならない人類への贈り物と考えることができる。しかし人類は返礼することができない。
ブルジョワの主体は半分動物であり、半分機械である。
人間が労働を拒絶するとき、彼は機械であることをやめ、動物、獣になる。
〔……〕至高な世界、あるいは聖なる世界、つまり実行の世界に対立する世界がまさに死の領域であるということは、けっして衰弱の領域であるということではない。
実際、従属とは常に必要=必然というものに服しており、死をまぬがれるという必要、人がいつもそうだと称している必要の根底には、つねに従属がある。
むしろ、攻撃的な自己肯定と制度としてのケアの間の矛盾は、この文化自体の根本的な特徴である。誰もがこの矛盾の中に囚われ、どちらの側か選ばなければならない。もしくはそれらの間の中間の道を見つけることを試みなければならない。
6 汚染する聖なるものーーカイヨワ
世俗のものと聖なるものとの接触が規制されなければ、それら両方を不純にすることになりかねない。
「創造的な時代の再活性化」が始まる。
ここでは世俗の仕事は知恵、死の恐怖、臆病と観想に支配される受動的な存在容態をあらわすものとして理解される。
「もはや安定は特にすぐれた利益と見られてない。中庸や一致、智慧などは至上の特性として設定された使用に充てられず、平穏や安楽、名望、そして名誉はのぞましい利得とみなされないのである」。
カイヨワは、全面的な汚染とあらゆる生きているものの死を避けるために、そのような遭遇に対してある防衛手段を取るようわれわれに助言している。
『ケアの哲学』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳