意思の自由、選択の自由はどこからくるのか。悪を択びとりうる人間的自由は何によって根拠づけられているのか。
シェリングはこの書において、自由をば単なる恣意と考える普通の見解を不充分であるとして、これを善と悪とに対する能力であると考え、悪の発生や起源の考察から、進んで悪の存在理由を説明せんとするいわゆる弁神論にまで到っている。善が宇宙或いは真実在の根本原理とされることが多いにも拘らず、その対立者としての悪にその当然与えうる深い考察が与えられ、またそれが、体系を支配する根本概念の一つとなっているような場合は、哲学史上においても比較的少ない。
前書き
精神的な自然存在の本質としては、まず理性と思惟と認識が数えられるから、自然と精神との対立は初めは当然この側面から考察された。単に人間的なる理性に対する固き信仰、一切の思惟や課題は完全に主観的であり、他方自然には全然理性も思惟もないという確信、これに加うるに、カントによって再び目醒めされた力動的なるものも、再び高次の機械的なるものに移り行くにとどまり、それと精神的なるものとの同一性においては毫も認められなかったために、あまねく支配している機械論的な考え方、これらのものは考察のかかる歩みを正当づける充分の理由を与える。
今より高い或いはむしろ真の対立が、すなわち必然と自由との対立が、現れいずるべき時である。そしてこの対立とともに初めて哲学の最内奥の中心点も考察に上ってくるのである。
今や再びより健全な時代が現われんとしているように思われる。誠実なるもの、勤勉なるもの、心深きものが再び求められている。
批評家たちはむしろかかる連中をいずれもオリジナルのものとして取り扱ってもらいたい。これは実際のところ誰でもそうありたいと欲しているものであり、また或る意味ではずいぶん多くの者がそういうふうなものなのである。
われわれがなお一層希望することは、協同的努力の精神がますます強固となり、そしてドイツ人をあまりにもしばしば支配する党派精神が、われわれの求めているような認識と見解の獲得を妨げないということである。
ミュンヘン 一八〇九年三月三十一日
第一 序論
一 人間的自由と体系一般との関係
人間的自由の本質に関する哲学的な諸研究は、一部分はその自由の正しい概念に係われものであり得る。というのは、自由の感情が各人にいかにも直接に刻印されているにも拘らず、自由の事実は決してそう表面に浮いているものではなく、それを言葉に言い表わすためだけでも、感受力の普通以上の純粋さと深さとを要するに違いないからである。
しかし決して消え去らなかった言い伝えに従えば、自由の概念はおよそ体系なるものとは相容れないものであって、統一性と全体性とをもつと自負する哲学はいずれも自由の否認に趨る、と言われる。
かかる体系は人間的悟性の洞察は決して届き得ない、と一般的に主張することは、結局何も主張しないことに等しい。述言はそれが理解されるに応じて、真か偽かのいずれかであり得るからである。問題は、人がおよそ認識するという場合の原理をどう規定するかにある。
しかし学というものを嫌う人々にあっては、学といえば通常の幾何学の認識のごとく全く空疎な、生命のない認識を考えることが、習わしになってしまっているのである。
必然と自由との矛盾なくしては、哲学のみならず、精神の高級たる意欲がすべて死のうちへ沈むであろう。その死は、かの矛盾がいかなる適用をもたないもろもろの学問にこそ固有なものなのである。
『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳