
限界とは可能なものの限界なのだ。
表象はそのとき「それ自体として」出現するのである。
私たちは同意をあたえることにためらいを感じます。私たちは困惑のなかにとどまっています……。
思椎、それは追想です。しかし追想は過去のつかのまの現実化とは別なものです。
追想は、私たちに打撃をあたえるものを考察します。私たちはまだ、自由について考え、さらには自由について語るにふさわしい空間にはおりませんーー私たちがこの自由の圧殺についてもまた目を閉ざしているかぎりは。
アメリカとソ連という二つの主たる帝国主義に監視されているために、ヨーロッパのなかに帝国主義を再構築することは不可能なのです。ということは、国家的な問題は、以前のようにヨーロッパレベルでの政治的な問題にはなりえないということです。それは不可能なのです。
『政治という虚構』フィリップ・ラクー = バルト / 著、浅利誠・大谷尚文 / 著

なにが起こったかについての公式見解に異議を唱えることは、調査、歴史、そして連帯の問題であり、そのような対抗の語りが効果を持つかどうかは、それが一部をなす政治プロセスがどのようなものであるかにかかっているのだ。
感性術的調査は二重の目的をもっている。それは世界に対する探求であると同時に、世界を知るための手段に対する探求でもある。つまり、出来事と出来事を認識するための装置の両方について説明責任を問うのだ。また証拠という概念や、その概念に依拠する知識生産の文化や真実の主張を問い直し、疑問を投げかけながらも、証拠の生産に関わる。
つまり調査的感性術はテクノロジーを利用しながら、利用するテクノロジー自体の政治性を問いに付す。公に物事を表現するために複数のプラットフォームを使いなから、こうした表現の場の限界と政治性に疑いを差し挟む。知識の生産を行ないながら、権力と知識の結びつきに批判的な眼差しを向けるのだ。
事実(fact)と真実(truth)は同義語のように思えるかもしれないが、反認識論者の体制において「真実」は一種の表明であり、その権威は異議を唱えたり、検証したり、批判的に分化することができないなにかを示す。「真実」は超越的なのだ。だがそれに対して、言葉の本来の意味において、「事実」は異議申し立てと検証のプロセスに根ざしている。
ニーチェにとって事実それ自体は存在しない。事実として安定するものはすべて、多くのもの現象を記述する言語やその他のシステムの能力、出来事を感知したり記述したりしようとする制度や装置を貫く政治的関心、事実の狭い読み方をつくりだす物質の形成、そして確率の再帰的計算などーーからなる合成物である。事実は複数の視点の収束点に形成されるのだ。
『調査的感性術』マシュー・フラー+エヤル・ヴァイツマン/著、中井悠/訳
二冊に共通するのは「エゴ」って「フィクション」ってことなのか、と…⁈
« 引用の引用