mitsuhiro yamagiwa

2021-07-18

姿なきものの現前

テーマ:notebook

二 自己/他者の切り分けを越えて

 あらゆる社会は、自己が排除するものによって自己を定立する。社会は自己を差異化することによって自己を構成するのである。集団を形成することは、異人をつくりだすことである。あらゆる社会に本質的な二極構造は、「内部」が存在するために「外部」を置き、内なる国が輪郭をもつために境界を引き、「私たち」が共同体をつくるために「他者たち」を定めるのだ。

 自己は、自己ならぬものを他者(異人)として区別することでみずからの境界を定め、自己同一性を確立する。

 セルトーは、歴史のエクリチュール、すなわち「歴史を書くこと」に、近代西欧文明を駆動してきた力の根源を認める。彼によれば、近代西欧文明の歴史記述の原理は、「切断」と「差異化」にある。つまりは、自己(現在)/他者(過去)を切り分ける操作である。
 近代以降、西欧において歴史記述は、自己に固有の場を創設すること、すなわち自己(現在)から他者(過去)を対象として区別することを根本原理としてきた。この操作の結果、自己の現在かた切断された他者は、黙して語らぬ他者、ひたすら「書かれる客体」とされる。いっぽう、沈黙せる客体を「書く主体」となる自己は、さまざまな言説の能動的な生産者となる。歴史学のみならず、民俗学や文化人類学、精神分析学、教育学といった近代西欧の知は、つねに他者(過去、野蛮人、民衆、狂人、潜在意識、子ども、第三世界など)との関わりにおいて、他者を書き、「他者の場」を占有して自己を拡大し、文明の発展を遂げてきた。

 歴史家の現在は、過去を過去(過ぎ去ったもの、死んでしまったもの)とすることによって確立される。歴史家は、過去の他者(死者)をテクストという墓場に埋葬することで、みずからの仕事をなすのである。

 書かれるばかりの他者は完全に沈黙しているととかぎらない。死者は亡霊として現れることがある。
 
 こうやって新たに過去を包摂してしまうやり方が大した事柄とはみなされないもの――史料の選択からこぼれた屑や、説明のなかで目を引かずに残ったもの――は、それでもディススクールの縁や、ディスクールに走るひび割れのなかに戻ってくる。具体的には、「抵抗物」や「残存物」であり、あるいは「進歩」や解釈の体系の整然とした配列をそれと知らず乱すような遅延物がそれである。それらは、ひとつの場所の法によって構築された結合法則(シンタックス)のなかに生じてくる言い損ないなのだ。

 たとえ現在が過去を切り離し、自己が他者を抑圧しても、現在は過去なしにはなく、自己は他者なしにはない以上、前者は後者を完全に排除することはできない。その意味で、他者を書く知の主体がみずからのためにしつらえる「自己に固有の場」は、つねに不安定なもの、不確かなものであるほかない。だが、この不安定さ、不確かさは、とりもなおさず自己と他者との別様の可能性でもあるのだ。
じっさい、セルトーの思考はつねに自己/他者関係のよりポジティヴな可能性に向かっていた。

 セルトーのまなざしはいつも、「自己に固有の場」を横切る他者の、テクストに遺された足跡をねらっていた。

三 他者の足跡を求めて

 書くことは自己に固有の場所を確立することであり、他者の場所を占有する意志の発動である。

四 セルトーの戦

 『日常的実践』というテクストそのものが戦術の実践なのだ。

七「場の構成」――もうひとつの「場」のありか

 『霊操』という]この実践法は、他者に場をあけるやりかたである。この実践法はそれゆえ、「根源」からはじめてみずからが語っているプロセスのなかに、それじたい組み込まれている。そしてこのプロセスの本質は、その全展開においてみたとき、テクストにとっては「指導者」に場をあけることにあり、指導者にとっては実践者に場をあけることにある。そして実践者にとっては、<他者>よりみずからに到来する願いに場をあけることにある。こうしてみると、テクストは、みずからが語っていることをみずから行っている。テクストはみずからを聞きながらみずからをつくる。それは他者の願いの産物である。それは他者の願いによって構成される空間である。
逆にいえば、『霊操』というテクストは、テクストの他者、テクストの外からやって来る他者である「願う者」なしにはない。自己は固有の場の外に向けてはじめの一歩を踏み出す者、すなわち「想像と掟」に立ち戻る者、そうして聞こえてくる海のざわめきを聞くことを受けいれる者がいなければ、それは生気のない物体にすぎないのである。

八 セルトーの場と信

 思い描かれる想像の風景の数々は、自己に固有のディスクールに亀裂を生じさせ、自己に固有の場から自己を引き剥がして、そこになにか異質な他者を招き入れる余地を生む。要するにそれらは「他者に場をあける」実践なのだ。

 「信じる」とは、「わたしの先に来り、そしてわたしの後に来ってやまない他者との関係を指ししめす」のだと。「信じること」は、他性の究極として捉えられる「死ぬこと」や、あらゆる制度的担保から切り離されてある「語ること」そのものと根本的に一致するともいわれる。

 「はるかな昔とはるかな未来に想いをはせること」は、日常に潜み、聞かれざる声を上げづつけているさまざまな実践の創造性を、抑圧の記述に偏りがちな分析に抗して語るための技法であった。ここで重要なことは、この地平線の想起、それ自体がひとつの技であるような技への信が、いつも「この現在」という場からの歩み出しとしてなされるということだ。「思考するとは……わたりゆくこと」。それは「この現在」を過去や未来に拓くこと、みずからの場に異質なものを招き入れること「他者へと場をあけること」でもあろう。セルトーにおいては、思考することと信じることのあいだにも根本的な一致がある。

『日常的実践のポイエティーク』ミシェル・ド・セルトー / 著、日常的実践という大海の浜辺を歩く者――ミシェル・ド・セルトーと「場」の思考:渡辺 優/著より抜粋し引用