まえがき
Ⅰ
重大な問題は、全体主義の研究が、中国で起こったこと、現在なお起こりつつあることを無視してよいのかどうかという問題である。
われわれの文脈で言えば決定的なことは全体的主義的統治は独裁や暴政とは異なるということなのである。
なぜなら全体的支配とは、何ものもそれと共存することができない唯一の統治形式であるからである。
Ⅱ
グロテスクなまでに無定形な構造はナチ・ドイツに見られるのと同じ指導者原理ーーいわゆる「個人崇拝」ーーによって維持されていること、この特殊な統治の執行部門は党ではなく警察であって、警察の「作戦行動は党機関の規制を受けていなかった」こと、この体制が幾百万となく殺してしまった無実の人々、ボリシェヴィキの用語では「客観的な敵」と呼ばれた人々は、自分たちが「犯罪なき犯罪者」であると知っていたこと、初めの頃の体制の敵ーー政府要人の暗殺者、放火犯、盗賊などーーとは区別されることの新しいカテゴリーこそ、ナチのテロルの犠牲者が示した行動のパターンからよく知られているのと同じ「完全な受動性」を示した人々であること、などである。
大粛清の間の「相互の密告の洪水」が、国の経済的・社会的繁栄にきわめて効果のあるものだったことは、以前から疑う余地のないことだったが、ただわれわれに今になってようやくはっきり分かったのは、スターリンがどれほどの周到さをもってこの「密告の不吉な連鎖を働かせる」ように仕向けたかということである。
全体主義的支配の代価は、ドイツやロシアが今日なお完全には支払いきれずにいるほどに高価なものだったというのが真実なのである。
Ⅲ
大粛正のような「破壊作戦」は孤立したエピソードでも異常な状況による体制の行き過ぎ行為でもないということ、それは制度化されたテロルの生むものであって一定の間隔でくり返されるものなのだーーもちろん体制の性格それ自体が変わらなければのことだがーーということである。
一九九六年六月
ハンナ・アーレント
十章 階級社会の崩壊
もし全体主義的な性格とかメンタリティとかいうものがあるとすれば、この融通無碍な転向の能力と連続性の欠如こそ、疑いもなくその最たる特徴だからである。
全体的支配は大衆運動がなければ、そしてそのテロルに威嚇された大衆の支持がなければ、不可能である。
全体主義運動のファナティシズムは、あらゆる型の理想主義とはっきりと対蹠的に、運動が狂信化した信奉者たちを見捨てると同時にそれ自身も崩れ去ってしまう。運動の壊滅後にはもはや何の確信も残らない。しかし運動が持続しているかぎり、そして運動の組織の枠内にいるかぎり、狂信の徒となったメンバーたちは経験からも論証からも手の届かないところにいる。彼らは自己を運動にあまりにも一体化させ、運動の法則にあまりにも完全に適合させたために、あたかも経験をするという能力がまったく失われてしまったかのようであって、その一人一人にいたるまで拷問にすら何も感ぜず、死の不安さえ覚えることがなくなってしまうのである。
『新版 全体主義の起源 3』ハンナ アーレント/著、大久保和郎・大島かおり/訳より抜粋し流用。