第六章 俳優としての人間
エリック・エリクソンが与えた意味では、アイデンティティとは、人が成りたいと思う人間と、世界が彼に成ることを許す人間との交わる点である。
俳優としてのパブリックな人間ーーしかしこのイメージは、いかに喚起力が強いにしても不完全なものである。
つまり、パブリックな俳優とは、感情を提示する人間なのである。
憐れみは独立した感情として存在しているのであり、その経験ごとに変わるところの、したがってそのときどきの経験に依存しているものではない。
身振りをつくったり、場面をととのえたりすることは、それをより表現力のあるものにするものではない。むしろその逆である、というのは、ひとたび一般的なパターンに合わせられたとなると、その体験はより「真正」でないように思われるだろうからである。同じように、感情の表示の原理は非社会的である。
文化が感情の提示から感情の表示を信頼するように変わって、正確に報告された個人の経験が表現力があると思えるようになると、公的な人間は機能を失い、したがってアイデンティティを失う。公的な人間が意味のあるアイデンティティを失うにつれて、表現そのものはますます社会的でなくなるのである。
分析家、批評家であったルソーは、予言者でもあって、公の秩序が真正な私的な感情と政治的抑圧との結合にもとづいた生活に屈服するだろうと予言している。
俳優としての人間についての常識的見解
必要によっても、あるいは他人が人の過去についてもっている知識によっても、固定された外見、役割はないのであるから。
ディドロによる俳優の演技の逆説
人々がお互いに直接的、自発的に反応しあう世界は、表現がしばしば歪められる世界である。二人の人間の間の表現が自然になればなるほど、彼らはより信頼性のない表現しかできないのだ。
繰り返しが可能であることがまさに記号の本質である。
本来的に表現をおこなう社会的行為は繰り返しが可能なものである。
自分から距離をおいた外見は計算できるものであり、外見をつくる人間は、置かれた環境によって話す言葉や身体の衣装を変えることができる。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳
限界のない自由 »