第二部
知覚された世界
〔身体の理論はすでに知覚の理論である〕
対象の統一性は、思惟されるのであって、われわれの身体の統一性の相関者として体験されるのではなかろう。
立方体の思惟を可能とするために、われわれは空間のなかに、例えば立方体の表面に、あるいはそのなかに、あるいはその外に、立場をとるのであって、したがってわれわれは、それを遠近法的に見ているのである。あい等しい六つの面をもった立方体なるものは、単に不可視的であるばかりではなく、また思惟不可能なものでさえある。それは自分自身に対してあるような立方体であろう。しかし立方体は一個の対象なのだから、自己自身に対してあるということはない。
私にとって互いに等しい六つの面をもった立方体があるというのも、私がこの対象に近づくことができるのも、私が内部からそれを構成したからではない。むしろ知覚的経験によって私が世界の厚みのなかに身を沈めているからなのである。
私は、見かけの背後に対象の真実の形態を再構成するために、私自身の運動について客観的な像をつくり、それを勘定に入れるなどという必要はない。なぜなら勘定はすでになされているからだ。つまり新しく現われる見かけは、すでに、体験された運動と組み合わされ、一個の立方体の見かけとしておのれを提示しているのである。 物と世界とは、私の身体そのものの諸部分といっしょに私に与えられている。
外的知覚と自己の身体の知覚とは、同じ一つの作用の二つの面であるから、いっしょに変化するのである。
つまり、われわれは身体についての、客観的な、距離を隔てた知識の下に、身体がつねにわれわれと共にあり、われわれが身体であるからこそわれわれがもつところの、身体に関するこの別の知識を、再発見したのである。
こうして身体ならびに世界との触れ合いを取り戻すことによって、われわれがやがて再発見するもの、それもまたわれわれ自身なのである。というのも、われわれがおのれの身体でもって知覚する以上、身体とは自然的な自我ということであり、いわば知覚の主体であるからである。
Ⅰ 感覚すること
〔知覚の主体とはどういうものか〕
客観的思惟は知覚の主体というものについては無知である。というのも、それは既成の世界をあらゆる可能的な出来事の場としておのれに与え、知覚をこれらの出来事の一つとして取り扱うからである。
知覚のすべてが、知覚によって開かれた地平のなかに、居を占めるのである。
意識の状態は状態の意識となる。受動性は受動性の措定となり、世界は世界についての思惟の相関者となって、もはや構成者に対してしか存在しない。それにもかかわらず、主知主義もまた出来あがった世界をおのれに与えている、といってやはりさしつかえない。
一体どうしてわれわれは自己自身をわれわれの身体と同一視することができるのだろうか。ほんとうは精神の洞察によって捉えているものを、われわれの眼で見ているなどと、どうして信ずることができたのだろうか。
要するにわれわれが知覚するということは、いかにして起るのだろうか。
知覚の主体というものは、われわれが所産者と能産者、意識の状態としとの感覚と状態の意識としての感覚、即自的存在との間の二者択一を、避けることができない限り、いつまでも捉えられないであろう。
『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。