A 観察する理性
観察する理性とその運動
意識は観察する。すなわち理性の欲するところは、みずからを存在する対象として、現実の、感覚的に現在するしかたで見いだし、所有することである。
「観察する意識自身がなんであるか」
観察する意識の運動から生まれてくる結果は、いっぽうでは、意識が自体的にそうであるありかたが、じぶん自身に対しても〔自覚的に〕生成してくるというものとなるだろう。
観察する理性のふるまいが、その運動のさまざまな契機にそくして考察されなければならない。つまり、観察する理性が、自然と精神、最終的には両者の関係を、感覚的存在としてどのように受けとり、さらにみずからを存在する現実としていかに探しもとめるのかが、考察されなければならない。
a 自然な観察
記述すること一般について
思想をもたない意識は、観察することと経験することが真理の源泉であると言明する。
意識はそのかぎりでは、対象においてひたすら普遍的なありかたを、いいかえれば抽象的な「私のもの」を見いだすだけであるから、意識はなお対象をとらえる悟性とはなっていないにしても、すくなくとも対象を記憶するものでなければならない。記憶とは、現実にはただ個別的なしかたで目のまえにありものを、普遍的なしかたで表現するものなのである。個別的なありかたから〔普遍的なありかたを〕記憶がとり出すやりかたは表面的なものであり、〔とり出された〕普遍性の形式もおなじくまた表面的なものである。その形式のうちへと感覚的なものがただとり入れられるとはいえ、感覚的なものがそれ自体そのものとして普遍的なものとなっているわけではないからだ。こういったものが事物を記述することであって、それはひたすら記述することのうちにあるにすぎないのである。対象はしたがって、いったん記述されてしまえば、関心を引かなくなってしまう。
「標識」の観察から法則の概念へ
ここで観察は単純なものに局限されている。ことばをかえれば、感覚的な散乱を普遍的なものをつうじて制限しているだけである。
真のありかたとはすなわち、反対のものに関係してゆくことなのである。
本質的な標識と呼ばれるものとは、静止して規定されたありかたのことである。
概念とは、感覚的現実の〔みずからにとって〕どうでもよい存立を、それ自体として廃絶してしまっているものなのである。
『精神現象学 上 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。