第二 悪の一般的始原と発生(自由の実質的本質)
一 実在する限りの存在者と実存の根底たる限りの存在者との区別
われわれの時代の自然哲学が初めて学のうちで、実存する限りの存在者と単に実存の根底である限りの存在者との間に区別を立てた。
そしてまさにこの区別が、同時に自然と神との最も明確な区別を招致するものであるのに、そんなことには頓着なく、自然哲学は神を自然と混同するといって糾弾された。
a 神と神のうちの自然
重力との関係から見て実存するものとして現われるものも、やはりまた自体的には再び根底に属し、従って自然一般は絶対的同一性の絶対的存在の彼岸に存するものの一切であるから。なお、かの先行ということに関して言えば、それは時間上の先行とも本質の優先とも考えるべきではない。一切が発生してくる源たる円環のうちでは、一者(das Eine)がそれによって生産されるものが自身また一者によって産み出されるということもなんら矛盾ではない。ここでは初めのものもなく、終りのものもない。一切が相互に予想し合い、一はいずれも他ではなく、しかも他なくしてはあり得ぬからである。
b 被造物の考察より見られるこの区別。憧憬と語性。万物の発生
しかしまた何ものも神の外にはあり得ないのであるから、この矛盾が解かれ得るのは、万物はその根底を、神自身のうちにおいて神自身でないものに、すなわち神の実存の根底であるものに、有するということによってのみである。
このものを人間的にわれわれに一層身近な姿で理解しようとするならば、われわれは、それは永遠なる一者が自己自身を産まんとして感ずる憧憬である、と言ってもよい。
それ故にそれは、それ自身だけで見れば意志でもある。しかし何ら悟性を含まぬ意志である。
というのは、悟性は本来意志のうちなる意志(der Wille in dem Willen)である。
われわれが現在眺めているごとき世界のうちでは、すべては規則・秩序・形式なのであるが、しかもなお根底にはいつも無規則なるものが存していて、あたかもいつか再び突発してきうるかのごとくであり、どこを見ても秩序や形式が根源的のものであるとは見えず、元初に無規則であったものが秩序をつけられたのであるかのごとく思われる。これが万物において実在性の不可解なる基底をなすものであり、決して割り切れぬ剰余であり、最大の努力を以ってしても分解して語性とすることができずして永遠に根底に残るものである。この悟性なきものから、本来の意味で悟性は産まれたのである。この先行する暗黒なしにはもろもろの被造物の実在性も存しない。闇は彼らの必然的な相続分である。
正しく言えば、悟性は分かれた根底のうちに隠れていた統一すなわちイデアを露呈せしめるのであるから、呼び覚すこと(Erweckung)によってである。この分開においてわかれた(しかし全然離れ切ったのではない)諸力は、のちに肉体が形造される際の素材となるものである。
『人間的自由の本質』シェリング/著、西谷啓治/訳