空洞に潜るーー宇都宮でのイヴ・ネッツハマー展に寄せて 石川潤
1 無為の通過
「誰でもない者/ 誰でもよい者」
〈抽象的人像〉
《身体の外縁》
マネキンの身体とは、意味を剥奪する抑圧と、意味を付着する抑圧とが、同時に問われる場なのだ。
2 無をめぐる日本
「知覚だけに集中して観察に徹することが出来る。言語によるコミュニケーション手段が封じられることで、直感や感覚がより研ぎ澄まされるんだ」。
「事物は意味を生みだしつづけ、欲望の対象であることをけっしてやめない。エクリチュールとは結局のところ、それなりの悟りなのである。[中略]つまり、悟りは言葉の空虚を生じさせてゆく。そして、言葉の空虚こそがエクリチュールをかたちづくる。その空虚から描線が生まれてくる」。
ここで「悟り」とは、究極の真理へと言葉で跳躍することではなく、あるいはそうした言葉を授かることでもなく、むしろ逆に、意味へと回収しようとしてやまない言葉のはたらきを停止することだと捉えられている。
「エクリチュール(書かれたもの)」は既存の意味の透明な担い手であることに抗い、「それそのもの」になろうとする。けれども無意味のうちに自足はしない。意味を脱ぐことで生じる意味が誘いかける。
3 線の人、潜る身体
あるべき位置にあるべきものがなく、あるべき機能が自明のものではなくなるこうした統治の混乱。
4 真空の解読、傷のエクリチュール
「その身体的がしめす反応や姿態にわたしは寄り添い、ものがたりを読み取ります」。
「真空の解読」。その作業は、現実をなぞるようでありながらその実、現実に対する違和として自身を体現する「線」を用いてなされるのだという。現実は批判される。正面から対抗的にではなく、重ねと逸脱によって。
「不都合なものの保護区」
違和の痛みの傷跡として解読を呼びかけるエクリチュール。
《反復するものが主体化する(プロジェクトA)》
〈空白〉を解読しようとしても、そこにある/あったものに到達することはできない。存在は意味ではないからだ。けれども痛みは伝染する。
欠く- 描く- 書く- 描く。
痛ましさも諧謔も、なぜ人間でないものに託されることで届きやすくなるのだろう?
5 《ガラス面上の素描群》ーー共生のしかた、言語の他者
「環境」との対話。それは第一義的には、作品とそれが置かれる建築や周辺風景との協働である。
透明な網の目をなすドローイングは、周囲の諸要素との重なり合いによってつねに違った景色を生み出し、世界を「別の現れ方」の総体として示し直す。
人間と機械の境界を問うことは、人間と動植物の境界を問うことと表裏である。そしてそれらはいずれも、「言語」と「言語に近似する何か」との境界を問うことでもある。
7 抽象的人像、マネキンのトラウマ/感受する身体
戦争の惨禍を信じがたいまでに押し広げた機械化は取りも直さず人間が人間的だと信じてきたものの帰結であったと意識されるとき、人間らしさの表現もまずは撤退的にならざるを得ない。
「私達の生とはひとつの芝居である」
「シュプレマティズムの哲学には「素顔」と同じく仮面に対して懐疑的に対処する十分な理由がある。ある人間的な顔(ある人間的な形)の現実性に全面的に異議を唱えるからである」マレーヴィチはそのように書いた。
マレーヴィチの言うように表情こそが演技する仮面であるならば、目鼻のない頭部は、内心を読み取らせない仮面なのではなく、むしろ本体と言うべきものであろう。それは空虚であることを隠さない。コンピューターの進化がもたらした機械化の次なる段階で、イヴ・ネッツハマーは美術史の遺産を批判的に継承し、<抽象的人像>にさらなる展開をもたらしているようにみえる。彼にあって特徴的なのは、その身体が外骨格的な鎧という性質をもたないことだ。それは甲殻類の殻を剥いだときにあらわれる、極度にやわらかい透明な中身を思わせる。彼にとっての〈抽象的人像〉は本来的に、可愛的な傷つきやすさを具えた「感受する身体」なのである。
8 《奇妙な空間混合》ーーハエの教え
意識を脱するためには意識をさらに意識して、相対化する必要がある、ということであろうか
10《筏》ーー空虚の構造体としての
いちばん大事なことは語ることができない、語らないからこそ存在することができる、という美学である。それが危険に満ちていることは間違いない。
意味で埋めなければならないという強迫がなく、逆に意味の付着を頑なに拒絶もせず、空っぽであっても感覚の停滞はなくて、〈無〉を強権的に発現させたりはしない術。それは、ごく身近にあって親しく、けれど、どこまでいっても解きがたい未知であるような相手と、うまく付き合えるかどうかにかかっているのかもしれない。たとえば、影と。
11 オブジェの影、反復の主体化
痛みを知らぬことの空虚と、不透明な不可視であることの空虚。ふたつの空虚が自乗する。
「言語に近似した何か」が問題なのだ。
15 空洞に潜る
ネッツハマーの〈抽象的人像〉の極度にやわらかい身体は、傷を「そのまま受け入れ」ようとしていなかっただろうか?
膨影の血管、カタツムリの舌
ネッツハマーの〈抽象的人像〉にあって「舌」は、「言葉の近くにありながら言葉にならないもの」が凝集する場だ。
注 :
「日本神話の中心は、空であり無である」
河合隼雄『中空構造日本の深層』
ドイツで活躍したエストニア出身の生物学者、ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)は、1934年の著作『生物から見た世界(Streitzugedurch die Umwetten von Tieren und Menschen)』で、おのおのの生物種はその知覚構造に応じたおのおのの世界を生きていると唱え、それを「環世界(Umwelt)」と呼んで「環境(Umgebung)」と区別した。
当然、ヒトもまた固有の「環世界」を生きている。したがって人間だけが全ての生物に共通する客観的な「環境」を把握しているわけではないということになる。複数の「環世界」は相互に独立していながら、精妙に関連し合う。
裏返して言えば、相手が感じといるはずのことをまるで自分のことのように感じるのに、絶対に自分のこととして「わかる」ことはできない、となる。「共有なき共感」というその両義性は、ネッツハマーが映像で執拗に描写する「痛み」の根本的な性質である。
〈抽象的人像〉について
映像の中で、人像たちは有無を言わさぬ状況の展開に巻き込まれ、ときには血を流し、煩悶し、危いコミュニケーションに身を投じる。際立った受動性を示すこれらの人像は、無防備な傷つきやすさと同時に、まさに傷つくことを通じて何かを回復するという可能性をも感じさせる存在である。
シュミレーション世界の痛みは誰のものか 石井利香
はじめに
リアリティを排した虚空間としてのアニメーション
鑑賞者を虚構と現実の間で宙づりにするネッツハマー作品
第一節 シュミレーション世界に投げ込まれる存在
モチーフが形態や性質をもとに横滑りして姿を変えていくこの構図は、人が見る夢との類似を感じさせはしないだろうか。19世紀の精神分析の祖ジグムント・フロイトによる夢の描写を引いてみよう。
彼によれば「夢は主として形象によって思考。」し、その視覚的な類似性をもって複数の事物を恣意的に連結する性質を持っている。
ネッツハマーが作り出す奇想天外な世界は、精神分析医の言う、文字通り夢のような世界ではない。見る人が連想したものが意志と関係なく生起し、自ら引き起こしたはずの事象になすすべなく巻き込まれてゆく。
夢と覚離した後の現実とを区別する要菜は何一つ残されていない。夢の自分と同じ加工を、現実の自分が施されていない確証はどこにもない。つまり、ネッツハマーの映像空間は、見ている人が自らの作り出した連想物の不条理な摂理に参き込まれるだけでなく、現実にまでも侵入し自分の実存をも脅かすのではと思わせる不気味な夢なのである。
ハイデガーの「被投性」
自分から縁遠い場所へ、抵抗もできずに移送される構図
被投性を理解(「了解」)し向き合うことによってこそ、人々は投げ入れられた存在でありながら、有意義な方向へ主体的に自らを投げる存在になれるというのである。
では、作家の描く人物たちも同様に、自主的に行動することができるのであろうか。
彼が別の状況へ否応なく転送されないためにできる行為が「行動しないこと」という消極的なものであるのが皮肉にも思える。
目撃している映像に現実世界の欠片をかぎ取るとき、我々は自らの生きる現実を改めて省み、内省と架空の世界が鑑賞者の中で入り混じることになる。
鑑賞者の予想を裏切って滑稽な動きをするモチーフは、深刻な作品の雰囲気を軽やかにする一方で、作家が作品外の鑑賞者の視点を意識している証でもある。
第二節 開放された純粋な「痛み」
ネッツハマーが作品にちりばめた仄暗い表現のいくつかは、過去百年の、今現在へも通じる大々的な暴力の歴史への冷徹な参照が土台にあるように思われてならない。
世界中で横行する紛争の、街を破壊する荒々しく激しい攻撃や、その犠牲となった人々や建物のイメージは、二十世紀から今日に至るまでその惨状を伝えるとともに平和・反戦意識を人々に植え付けてきた。
悲惨なイメージは、痛みを伝えるものであるだけでなく、ある特定のメッセージを擁する器と化してきたと言い表すこともできる。凄惨な光景は、各報道の言語情報一いつどこで撮影されたものか、どの陣営による加害で甚大な被害が生まれたのか、この惨状が収束する見込みがあるのかーーによって拡充されることで、むしろその情報や、それに含意された言外の意図ーー被害者と加害者がそれぞれ誰か、どちらが優勢かーーを伝達する視覚的な媒体として利用可能なのである。このようなキャプションを付与されたイメージは、人々の倫理観を涵養するという側面では社会的に肯定的な効果をもたらすものではある。
イメージが反復されることによってこそ、その社会的なメッセージが広く拡散されうるのだが、その反復は諸刃の剣でもある。アメリカの批評家スーザン・ソンタグは、近代以降の戦争の悲惨な殺戮などの写真とその受容を考察するなかで、この難点を鋭く指摘している。彼女は写真や映像など新しいテクノロジーの発展が、悲惨で残虐なイメージの絶え間ない供給をもたらしたことに目を向ける。テレビの登場によってその傾向は加速し、戦争の苦しみは「夜毎の陳腐な番組」になり下がった。痛ましいイメージが氾濫するうち、目をそらしたり、テレビのチャンネルを変えたり人々はそのショックに対処できるようになってゆく。しかしその一方で、ソンタグはすべてのイメージがその衝撃性を失うものではないとも主張する。残虐な暴力によって崩れた顔などの個々の写真がもつ、繰り返し見ることを憚られるほどの衝等には、人は慣れることがない。彼女はこのような強烈な表象を、人々が人間の凶悪的な一面を記憶しておくための個別的な例証として活用し、人類全体の教訓の中に編み込んでいくことを奨励する。
ソンタグの議論は、戦禍の痛ましさを伝える光景が、氾際によって消費財の一つとなったという通説に抗い、広範な道徳観念を浸透させるという社会的な意義を見出す試みであった。構造的に見ればこの試行は、一度個別の文脈から離れたはずの衝撃的な視覚情報が、改めてより広義の社会的な文脈に置きなおされることを意味する。しかし、痛みを伴うイメージの中でも、媒体としてではなく自己目的的な、「痛み」そのものを伝えるイメージがあるとすれば、それはネッツハマーの描く「痛み」ではないだろうか。そしてその純化した!痛み」はどのように意義付けられるだろうか。
ネッツハマーの映像作品で痛みを受けるのは、身体的特徴を可能な限り排した、画一的な人体である。彼らが感情や痛覚を持っているのかも定かでなく、また、どういう経緯で苦しんでいるかの説明もない。繰り返される加害行為がなにか具体的な事象を契機とした出来事ではないことが確かな分、その苦しみは抽象化されてゆく。言い換えれば、帰属グループや人種、顔、表情などあらゆる個別の性質がないということは、加害行為の文脈・背景を消し去ることにつながっている。また、加害行為自体も不条理なものである。
ネッツハマーの映像作品は同情を生むものでもなく、同情を生んだからと言ってその人間の倫理観を称揚するようなものでもない。個別的であれ、広範なものであれ、文脈から解放された痛みのイメージは、「陳腐」になる運命を逃れ、見る人の痛覚に直接働きかける純粋な刺激としてあり続けることになる。
痛みは、それが与えられた瞬間にその最高潮を迎えるが、ネッツハマーの作品の中ではその限りではない。傷は癒えても、その履歴を顕示する印が与えられ、いつまでもその事実が目の前から消えることがない。ぱっくり開いた傷口は、瞬間的に痛みを与えるだけのものではない。その傷に対して行われる外科的な措置は、治癒をもたらしながらもその操作は非論理的で、また想定外の結果を生む。
ネッツハマーが創造したシミュレーション世界には「自然」と形容できるものが存在しない。建築用製図ソフトで制作された世界は、具象もすべて写実的とは言えないが、その性質は、傷が自然治癒しないことにも通底している。歯を植えたり、逆に歯を除去したりといった人為的な操作がない限り、傷がふさがることはない。
ネッツハマーの表現する世界においては、我々の生活する世界と同様に、痛みを生じさせ、回復させ、治療する文明のサイクルがプロットとして存在する。傷をつけて治す、壊して治すという操作が様々な形で反復される。しかし、そのサイクルの中で生じる痛みは、傷自体が癒えたとしてもゼロになることはない。
見えなくなっても、身体のどこかに眠り、いつまでも疼いている。物理的な外傷の治療と関係なく、心理的なショック/トラウマが絶えずフラッシュバックしてくるような、現実世界
での感覚経験が肉体的に可視化される世界をネッツハマーは描いていると言えるのではないだろうか。
おわりに
昨今、熾烈な紛争が各地で勃発し、悲惨な報道が日々飛び交っている。その一方でその地から遠く離れた場所にいる人々は氾濫する情報とイメージとの距離を測りきれない場合が多い。惨憺たる事象が、自分が生きている世界で生起しているということを、身をもって現実と実感するのが困難な場合もあろう。疑似空間と現実世界の境界を侵犯するネッツハマーの映像作品は、現代の様相を反射しているようにも思われるのである。
イヴ・ネッツハマー『ささめく葉は空気の言問い』 図録より引用。
宇都宮美術館 会期 : 2024年3月10日〜5月12日