mitsuhiro yamagiwa

「知覚は経験に属することもなく、客体を持つこともなく、観念の盲目的な戯れにほからならず、夢にも劣るであろう」

カントにとって気散じとは、統覚による「統一」がゆるめられ、対象の表象が「散漫」になり、好き勝手に連合して遊び始める「心の弱さ」にほかならなかった。

ベンヤミンにとって気散じはたんなる弱さなどではなく、むしろ統覚それ自体が変容しつつあることの精神分析的な「徴侯」なのだ。

この新たな統覚こそ、映画による「練習」を通じ組織される「集団的身体」の認識=行動を可能とするものだ。

この自己解体の過程こそカントのいう気散じであり、そしてその具体的な「機会」としてベンヤミンが注目したのが、映画のもつショック作用だったというわけだ。

気の散った身体に無意識的な感覚データが流し込まれるとき、そのショックが「神経刺激」となって身体を駆け巡り、状況に即応した行動として出力される。

「当意即妙=精神の現前」ベンヤミン

「自分が群れの一部であることへの不安」

要するに神経刺激とは、感覚的データを意識へと転化することなく、高速演算可能な無意識=身体へと直接流し込み、当意即妙な行動として出力するための伝達回路なのだ。

自分自身をばらばらに分解すること。「主体性」を手放して「群れ」の中に溶け込んでいくこと。危機のさなかに自然とともに遊ぶこと。

「個的存在がときには、なにがしかの人間性を、かの大衆に譲り渡してしまってもかまわないのだ」とベンヤミンは書き記している。

「寝そべって見る革命ーー動画、気散じ、統覚の変容をめぐる美感的考察」 寺町秀明/著、「第17回『美術手帖』芸術評論募集」より

PROLOGUE

到来する21世紀のアート 

筒井宏樹

20世紀においては、自己批判が芸術を開拓してきたが、21世紀では、自己批判は芸術の内側にとどまらず、制度や倫理においても同時に機能することが求められている。さらに、アートがその外側の世界の権力や不平等とどのように結びついているのかを絶えず問わなければならない。

BT 2026.7『特集 21世紀の現代アート事典』より

関係はないが、先日、訪ねた古道具屋でかかっていたholly jonesのピアノ、癒しではなくズラし…。