mitsuhiro yamagiwa

2024-12-03

何かの内にあること

テーマ:notebook

3-6「ましてやわれわれ自身が著者であるとき」ーー映画の思考と『シネマ』の思考

「脳の」「古典的な」発想はふたつの軸に沿って展開した。一方では統合と分化であり、他方では隣接性ないし相似性による連合作用である」。「つまり脳は同時に統合 – 分化という垂直組織であり、連合作用という水平組織である」。こうした古典的な脳のモデルは運動イメージの体制の構造と一致しており、さらに統合 – 分化としての連辞と範列、相似性 – 隣接性としての隠喩という言語学由来の図式を用いる映画理論もこうしたモデルに依存したものとされる。

脳はわれわれの制御、解決、決定である以上にわれわれの問題、病、あるいは受苦となる。

諸々のイメージのタイプの遷移によって、「時間記号はたえず読解記号、思惟記号に繰り延べられる」。時間イメージがイメージの第二の体制として体系性を保持しているのは、類から種に降りていく帰属関係とは別の一貫性がそこにあるからであり、それはまさに個々のイメージのタイプのトポロジカルな変移に宿っている。

たしかに時間イメージの定義とその叙述形式には相同性がある。

われわれはひとつの変換の層を構築するのだが、それは複数の層のあいだにある種の横断的な連続性あるいは連絡を作り出し、局所不可能な関係の総体を編み上げる。(…)確かにこれは失敗のリスクがつきものの仕事だ。借り物を羅列しただけの支離滅裂なゴミくずしか生み出せないかもしれないし、似たものどうしを寄せあつめただけのありきたりのものしか作れないかもしれない。

思考はむしろ現在のわれわれと過去のテクストのあいだで取り交わされる、いずれにも「局所不可能」な連絡の総体としてなされるだろう。私の生き生きとした現在にテクストを引き寄せても、過去のテクストの身じろぎしない堅古さに寄りかかっても、思考は起動しない。

3-7 内在平面ーー哲学の構築主義(1)

主観と客観の観点からは、思考に関する悪しき近似値しか得ることができない。思考するということは主観と客観のあいだに張られた糸ではないし、一方を中心としたもう一方の転回でもない。思考するということはむしろ領土と大地との関係において成立する。

内在平面は思考されたものや思考の生理学的な条件、あるいは方法、手法、手段、目的といった思考における実現されたものではなく、思考の実現可能性を基礎づけるイメージとして、思考するということの意味を指し示す「思考イメージ」だ。

これは、哲学が概念の創造と定義されるのに対して、内在平面の描出が「前哲学的」なものをと考えられているからだ。それは哲学に固有のものであるのだが、哲学が「前提」として必要とするものであって、それ自体は概念として明示されない。

内在平面は哲学によって前提される前哲学的なもの、哲学的思考がなされるときにはいつもすでになされている前提だ。しかしある意味で概念の創造と内在平面の描出は同時であり、まず内在平面を構築してそこから概念を作るということはできない。それでも両者の堅持が区別されなければならないのは、この区別こそ内在を可能にするからであり、逆に言えば内在平面と概念の混同が超越の錯覚を呼び込んでしまうからだ。

何かあるもの「への」内在があると解釈するならば、いつでも概念と平面についての混同が生じてしまう。たとえば概念はある超越的普遍となり、平面はその概念の属性となるというような混同だ。

内在を「何かの内にあること」ととした途端に、内在の座である当の「何か」が帰属的な概念にすり替わってしまい、平面つまり思考に権利上属するものは概念のひとつの属性になってしまう。

つまり、内在を特定の概念への内在にしてしまうことは、当の概念への内在を超然と言う口実を与えてしまうのであり、平面と概念の区別はそうした副詞的な超越に対する用心として機能するのだ。したがって「内在はそれ自身にしか内在しない」ということ、内在平面と諸概念の区別は分ち難く結びついており、純粋な内在が達成されることと、平面を代表することなくそこに棲まう諸概念の還元されざる多数性の獲得は同時に起こる。

34〈一者〉の超越化、主観の超越化、その変種としての他者の超越化への批判はそれぞれイデアの「観照」、批判的な「反省」、現象学的な「コミュニケーション」という、〈普遍〉を構成する三つの錯覚への批判に対応する。

35 「哲学史があれほど異なった平面を提示しているのは、たんにいくつかの錯覚があるから、あるいは錯覚の多様性があるからというだけではない。(…)そればかりではなく、内在を作るそれなりのやりかたを、いっそう深い理由として挙げることができる」

このように、哲学の時間は以前と以後を切り離さず層位学的な秩序のなかでそれらを重ね合わせるような壮大な共存の時間だ。この時間は哲学史を裁ちなおしはするがそれと混同されることのない哲学の無限の生成だ。

哲学することなしに哲学的なテクストを読むことはできないのであり、思考することが「局所化不可能」であるのはそのような意味のことであり、一本の矢として放たれた哲学が哲学になるのは、それを拾った者が別の方向に向けてそれを再度それを放つからである。

そしてドゥルーズの哲学史的なテクストはその不可分性の実践の記録である。

『非美学』福尾匠/訳