mitsuhiro yamagiwa





















Jean-Baptiste Siméon Chardin  Still life with fruit, glass bottle and fayence pottery
c.1760-65, 19×34cm, Musée des Beaux-Arts d’ Angers
Jean-Baptiste Siméon Chardin  Glass of Water and Coffeepot 
c.1760  32.3×41.2cm, Carnegie Museum of Art
Jean-Baptiste Siméon Chardin The White Tablecloth
c. 1731–32, 96.8 × 123.5 cm, Art Institute of Chicago













藝術家は、パレットから絵具をとるときに、その色が画面の上でどのような効果を生むか、いつでも分かっているわけではない。

パレットから画面全体の中へと移ることによって、色彩は変貌し、弱くなったり目立つようになるなどして、効果を全く変える。そこで藝術家は模索して、自分の色彩に何度も何度も手を加え、いじりまわすことになる。この仕事の中で、かれの色合いはさまざまな物質から合成されることになり、それらが互いに反応しあい、遅かれ早かれ、融和性を失うのである。

われわれはある程度の明敏さしかもちえない。われわれには、或る長さの間しか、注意を払うことができない。

画家は一瞬しか持っていない。かれには、二つの行動を取り込むことと同様、二つの瞬間を取り込むことも許されない。ただいくつかの状況においてのみ、過ぎてしまった瞬間を想起させたり、これからやってくる瞬間を予告したりすることが、真実に反することもなく、また関心に反することもなくできるだけである。

たしかに一時は、物音、動揺、喧嘩、叫び声、潮のような満干、波のようなうねりが起こることであろう。それは、各人が自分のことしか考えず、自分のために国全体をも犠牲にしようとするときである。しかし、ほどなく人びとは、自己主張の愚かしさと、その努力の空しさを感ずるようになる。徐々に、各人が、自らの利害関心の一部分を捨てる気持ちになってゆくだろう。かくして、大衆が形成されることであろう。

われわれの周囲にあるほとんどすべてのタブローには、概念の弱さ、観念の貧困さがあり、そこから烈しい衝撃や深い感銘を受けるのは不可能である。見つめて、頭をめぐらす、すると、もう何を見たのかまったく覚えていない。

自然は存在するものに多様性を与え、冷たく、動かず、生きていず、感じもしなければ考えもしないものと、生きていて、感じかつ考えるものとに分けた。

目が近づけば近づくほど、わたしは自然をよく見る。そして目が遠ざかるにつれて、それだけ見える自然が少なくなってゆくのである。

どれほどのひとが、かつて自然を見たことがなく、結局見るに至らないことになることか。

「藝術の難しさを感じなかった者には、価値あるものなど作れません。」
シャルダン

われわれにおいて本能とは、目を開けて光を捉えるようになった瞬間に始まった無数の小さな経験の結果にほかならない。

ひとがわざとらしいと言って非難する主たるものが、表情なのである。たしかに、表情には無数にさまざまなマニエールがある。藝術においても社会においても、見かけだけの優美、しな、気取り、上品ぶり、さもしさ、もったいぶりあるいは尊大さ、深刻ぶりや知ったかぶり、うわべの苦悩や見せかけの信心がある。すべての悪徳、すべての美徳、すべての情念について、ひとは見せかけを作る。この見せかけは自然のなかにあることもあるが、模倣においては常に不快なものである。この上なく烈しい苦しみのなかにあっても、ひとが人であることを、われわれも求める。

美と真も、わざとらしさと偽物も、ひとしく、誇張されあるいは美化された自然模倣から生まれる。何故なら、そのとき藝術家は自らの想像力に身を委ねているからである。だが、最も完全な個人において自然が見せてくれるものを超えて誇張され、大きくされ、美化された自然は、どれもロマネスクなものではないのか。違う。

美術における古代人の模倣の基本的な方法が、古代彫刻の石膏像によるデッサンであり、ルネサンス期に成立した美術学校としてのアカデミーにおいて考え出され、今日に続く教育法である。また、美学史的に言えば、一八世紀の末にかけて、古代人の模倣の理念は批判されてゆくが、これがディドロの立場でもあったことは言うまでもない。

光と空気の意味を強調するのも、言わば、固い実体の固有色を脱実体化し、エーテル化するところに、その美的な効果を認めているからである。そして、光の効果をみとめるのは、特に反射と屈折の現象である(「光の響きあい」)。これもまた、光が物体に働きかけて生命化するポイントを捉えているからである。もちろん、このような光と色彩の効果を画面において実現するのが絶妙な技巧(「魔術」)であり、自然の現象であるとともに、藝術的な現象であることを、見逃してはなるまい。

絵画的構成は、その内実についての理解がいまだ曖昧であるにしても、近代的な形式主義美学の芽生えとして注目に値する。内容を捨象した画面はやがて抽象画にゆきつく。この面でディドロは、シャルダンの静物画に対する高い評価とともに、美を「関係の知覚」と定義する理論によって、この新しい造形性の美学を強調し、時代に大きくさきがけている。

美を真や善に基礎づける立場を示していることは、真や善の方が客観的で、人びとの判断が安定している、と考えていたからに相違ない。

『絵画について』ドニ・ディドロ/著、佐々木健一/訳