解説
生ある未来を紡ぎだしているのは、構成的な不在なのである。
その世界は、「死んでしまって軽くなった死者のはかり知れない重さ」から生み出されたものなのである。
「森は考える」のか
都市がいかにあるべきかを考えたり、森について考えたりする主体は、人間にほかならない。
私たちが住まう世界とは、私を、私たちを、人間を主語、主体としながらつくり上げられた世界である。
そして、そのような主体としての人間による思考から成り立つ世界の枠組みを壊して、別の世界のありようを想像してみることを呼びかける書、それが『森は考える』である。
コーンによれば、私たちは、知らず知らずのうちに、考えるということ、つまり思考を人間だけのものと決めつけてしまっている。人間だけが思考する存在であるという前提に立って、世界を組み立ててきたのである。また、人間だけが思考するというその想定を、人間以外のあらゆる存在に対しても当てはめて、世界をつくり上げることに自己陶酔している。コーンはそう述べた後、人間だけが思考するという見方を覆して、非人間を主体として、「森は考える」という見方をしでみようではないかと呼びかける。そうすれば、「人間である」とはいかなることかが、別の地平で見渡せると言うのだ。
私たちが人間的なるものを超えて考えることができるのは、思考が人間的なるものを超えて広がるからである。
コーンは、チャールズ・サンダー・パースの記号論を踏まえて、記号過程と「思考」をほぼ同じものとみなす。◉パースによれば、思考の主体である精神や「自己」は、記号過程の中で生じる。自己とは、先行する記号を受け取り、新たな「解釈項」を生む記号過程の中継点である。
記号過程とは、生命の成長や発展、衰退のプロセスのことでもある。生命形態を獲得する過程は、思考の過程であり、記号過程である。
コーンが提起するのは、人間だけが自然から独立した存在であるという見方に基づく、「自然と人間」、「物質と精神」をめぐる二元論的な思考を超えた、自然や世界をめぐる別の見方である。記号過程とは、生命の成長や発展の過程まで含む、「自己」による「思考」でもあるというアイデアを受け入れれば、森は、人間とそれ以外の存在とがともに織りなす記号過程が無数に生じては消え、消えては生じ、それに応じて、無数の自己が生じては消え、消えては生じる場であると捉えることがてきる。
超える
「人間とは何か?」が、人類学の究極の問いだったはずである。
コーンによれば、「人間的なるもの」は象徴、道徳、文化を含んでいる。これらはいずれも、実在から切り離されたと仮定される性質を持ったもののあいだの相互の位置取りによって意味や効果が生じる領域であり、その意味で、「人間的なるもの」は構築物や文脈といった概念と同義である。「あまりに人間的」な文化、文脈、象徴は、これまで、文化人類学の異文化理解には不可欠であるとされてきた。「あまりに人間的な」もののうち、「人間的なるもの」を可能にするのは、象徴にほかならない。コーンは、テレンス・ディーコンに倣って、象徴を「創発的」なものと捉えている。そのことによって、実在に対して恣意的な関係しか持ちえない、閉じられた体系として特徴づけられることの多い象徴を、別の仕方で対象化することを目指している。
「超える」とは、「目的となる対象の先を見据えるが、対象そのものを見失うことのないようにすること」である。それは、「超える」べきものを、無きものにするわけではない。さらに、それ以外のものだけに目を向けるわけでもない。
そこでは、道徳の領域が「人間的なるもの」だけに閉ざされているのではないということが示される。単に非人間の存在を人間的に扱うということや、道徳の編み目に参与するものが人間に限られるのではない、というだけではない。
善悪という価値判断を含む道徳をイヌにも共有させることが意味するのは、イヌが人間的に扱われるだけではなく、種=横断的に道徳を共有する方法が、部分的に非人間的(≒非象徴的)なものへと拡張される、という点である。
ルナにとって大切なのは、イヌと人の同質性を作り出すことではなく、意思疎通しながら、イヌと人を混同しないように、両者の近さの程度を統制する技法を身につけることなのである。その意味で、ルナは、イヌと人の差異を消失させることなしに、イヌのイヌ性を否認する課題に取り組む。「人間的なるものを超えた人類学」は、イヌが人間のようであることと人間とは一致しないことが共存する現実を、民族誌的に詳細に記述することを可能にする。
形式
それは、人間と非人間の両方を同時に見渡すための道具として、はかり知れない魅力を秘めている。
アマゾニア水系や植民地経済、アヴィラにおける霊的なものなどのあいだに共通して働くことからわかるように、形式にとっては、「人間的なるもの」の領域とそのほかの領域のあいだに区別がない。
植民地期の歴史、イヌの社会性やジャガーの単独性、人間とイヌの相互行為が互いに反響しあっている。文脈の違いを越えて、同じような形式が反響しあうことで、諸自己の生態学の中に参入する諸存在の各々の特徴や関わりあいの基調を規定するようになる。形式に注目することで、歴史や道徳的なものなどの人間的なるもの、動物の行動や生態学的事実などの生あるもの、さらには地理学的事実などの生なきものが、相互に弁別された領域を構成するのではなく、むしろ、それらが反響しあうことによって、ルナが生きる諸自己の生態学が生み出されるさまが描かれる。
眼前で起きている出来事の中に見出された形式は、それを、それとは異なる文脈で起きるほかの事象と結び合わせるように促す。目の前で起きていることをその社会の共時的な文脈に還元せずに、別の文脈へと結びつけることを誘う形式の議論は、人間的なるものとそれ以外の領域とを分け隔てるのではなく、多様な諸領域を一挙に射程に入れる視座を提供してくれる。このような観点に立つことで、コーンは、アヴィラの諸自己の生態学において、諸自己の布置を作り出している。関係性のありようを民族誌の中に描き出そうとする。関係がいかに形成されるのかという議論、関係性の可能性の条件の分析において、決定的な一歩が踏み出されているだろう。
増幅
狩猟をめぐる詳細は、相互に結びつけられることで、狩猟という文脈を構成するのではなく、全く異なる文脈にある事象に結びつけられて、その論理が描き出されることになる。
このことはまた、つながりのあるひとつの事象を切り分けて、異なる文脈に配置するという、本書特有の記述のあり方とも緊密に結びついている。
現実の中に読み解かれる論理のありようを示すには、事象を、経験されたように、ひとつながりのままに記すだけでは、不十分である。ひとつひとつの事象を繙き、ほかの事象をつなぎあわせながら、その事象を通り過ぎていった論理を跡づけなければならない。ちょうど、森の中を、誰かが何かが通った跡をひとつひとつ見つけることで、何かが進んだ経路を見出すように。「森の思考」に踏み入るには、森に踏み入るように事象の跡をたどる必要がある。
「増幅」とは、このように、異なる現実を結びつける方法のことにほかならない。
増幅は、人類学的な方法だということだけではない。それは、人間的なるものを超えたところにあるもの自体にも、本来的に備わる働きである。それゆえに、形式もまた増幅する。
イメージをもって考える
イメージとは「記号論的な全体」でもある。記号過程が部分から全体を構成する過程ではない、むしろ、その逆である。そのような主張もまた、こうしたイメージ概念に通じている。
「イメージとともに考える」ことは、森の中で人間の言語だけですくいとれるものではない、イコンやインデックス的な形態や行動を思考することにも重なりあっている。
「イメージとともに考える」ことの重要な論点は、経験された事象や出来事を特定の文脈の中に固定しえないものとして考えることである。
ナナフシのイメージは、その都度、並置される事象に応じて重なりながらも、微妙に異なる特性を示す。枝切れと見分けがつかなくなるナナフシについて、そのイメージをもって考えることによって、事象は、一義的にその意味や展開される方向が定められるのではないことに気づくことができる。
このように、同じものについて、別様に考えるように誘うのが、イメージである。事象をこのように扱う思考が、「イメージをもって考える」というコーンの言い回しの中に表されている。
コーンによる象徴の分析とは、川の渦、ディーコンの創発論と象徴を重ねていくことによって、実在に対する恣意性とは別の性質を、象徴に見出すことであった。この方法は、両眼の視覚、冥王星の発見、マクベスの短剣のエピソード、代数学の授業、性分化など、異なる事象を重ね合わせていくことで、精神と生命の世界に作動している「二重記述」という法則を見出したグレゴリー・ベイトソンの方法にも似ている。ベイトソンによって取り上げられた現実は、ほかの現実との類似と差異を通して、新たな相を獲得する。
(奥野克己・近藤宏)
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳
« 種=横断的