第六章 ポストトゥルースを導いたのはポストモダニズムか?
ひとたびわたしたちが、絶対的で客観的な真理という考えが哲学によるでっちあげだと理解するなら、唯一の代替案は「遠近法主義」と呼ばれる立場だけであるーーこれは世界が存在する客観的な仕方はなく、世界がどのようにあるかについての複数の視点だけが存続するという考えである。
これをポストモダニズムの最初の命題だと考えよう。つまり、客観的真理といったものは存在しない。
どんな真理の宣言もそれをおこなう人物の政治的イデオロギーの反映に過ぎない、というものだ。ミシェル・フーコーの思想によれば、わたしたちの社会生活は言語によって定義されるが、言語自体は権力と支配の諸関係によって貫かれている。これは、知識の要求はすべて、基本的に、権威の主張にほかならないということを意味している。言い換えれば、知識とは、力のある者がより弱い者に、自身のイデオロギーにもとづく視点を受け入れるよう強いるために用いられる、威圧的な手段である。
多数の視点があるならば、なにか特定のひとつの視点を受け入れようと主張することは一種のファシズムである。
サイエンス・ウォーズ
真理は視点に依存しており、すべての知識は社会的に構成されているという考えは共通していた。
ポストモダニズムは無意味であり、科学が実際にどのように機能しているのかほとんど知らない人文学出身の人々によっておこなわれている。さらにひどいことに、その批判は科学が実際にどのようなものなのかという核心を見逃している。科学は価値ではなく事実を組み合わせるのだ。
トランプの支持のトロール(ネット工作者)
いまやニュースが断片化しているということである。人々はたったひとつ、あるいはいくつかの少数の情報から「真実」を学ぶようには制限されていない。それどころか、「メディア」からのみ手に入れられるようにも制限されていないのである。
もし真理が存在せず、すべてがただものの見方に過ぎないならば、いったいわたしたちはどうやってなにかについて本当に知ることができるのだろうか?
じっさい、ニュースがただ政治的な表現に過ぎないならば、なぜそれを作り出そうとしないのか?誰の事実が支配的であるべきか?誰の見方が正しいものなのか?
かくして、ポストモダニズムはポストトゥルースの創始者となるのである。
『ポストトゥルース 』リー・マッキンタイア/著、大橋 完太郎/監修、居村 匠・大﨑 智史・西橋 卓也/訳より抜粋し流用。