ドレフュス事件ーー破壊的ゲマインシャフト
ひとたび公的生活と個人的生活の境界線が消されると、人格による裁判は政治が先へ進むことのできる唯一の道なのである。
軍法会議ーー「法の秩序」
粛清が集団的個性の論理なのだ。
こうしてコミュニティ感情を個性の共有と同一視することから、交渉、官僚主義、管理関係のことばをすべて別の領域のものと見ることはごく自然なものになる。
自分自身とは似ていない他の人々と交渉をもつことよりも自分が誰であるかを宣言することのほうが重要になる。
誰が本当の急進派か
個人的な損失や重荷や一身上の危険の意識をともなうことなく信念が変えられるためには、信念は熱心に信じられねばならないと同時に自己から距離をおかねばならないのである。
人が自分の知覚において弁証法的であるためには、人は公の場に出て、信念や社会的行為による個性の象徴化から離れねばならない。ルソーが公の場の人間の敵だとするならば、マルクスかそれを擁護する闘志である。
心理的に自分自身の開示とみなすことに慣れさせることで、弁証法的なイデオロギーから弁証法を奪ってしまった。
コミュニティの不在の神話が、卑しい、あるいは邪悪な群衆の神話と同じように、人々を駆り立てて、創られた共通の自己という観点でのコミュニティを捜し出すように仕向ける機能を果たしている。わかりやすい形で空虚な非人格性の神話が社会の常識になればなるほど、ますます当の大衆は都市的であることの本質を破壊しながら、道徳的に正しいと感じることであろう。都市的であることの本質とは、人々が同じであることを強制されることなく、ともに行動できることなのである。
『公共性の喪失』リチャード・セネット/著、北山克彦 高階悟/訳