
「ライシテ」はフランス共和国における政教分離のあり方を示す概念です。1905年に制定された政教分離法が今日のライシテを基礎づけていますが、その制定以前から、近代化を進める国家や社会の中に宗教をどのように位置づけていくべきかについて人々は思い悩み、それは時に大きな対立を生んできました。そして、1905年以降も今日に至るまでライシテの変遷は続いていると言えるでしょう。本展はこのようなライシテの変遷史と共に美術作品をご紹介する試みです。
かつて、フランスのブルボン王朝はキリスト教の神の威光に支えられ、絶対的な権力によって国家を統治していました。しかしながら、18世紀末に勃発したフランス革命は社会の状況を一変させます。革命の理念的な後ろ盾となったのは、啓蒙主義に由来する、理性による人間精神の解放の思想でした。神によって放たれる信仰の光と、自由をもたらす理性の光。二つの光がどのように折り合いをつけて一つの社会を築いていくのかー「ライシテ」の形成と変遷の歴史は、この問題と共に始まります。
フランス革命以降、信仰と理性の光はいずれもその輝きを微妙に変化させながら、消えることなくフランス社会を照らし続けます。それらの光が照らし出すものを人々はどのように見ていたのでしょうか。ある人の目には片方の光しか映らず、またある人は独自の配合で光を混ぜ合わせるなど、各々の地位や立場、思想・信条に応じてさまざまな反応が起こります。マイノリティの宗教もまた、社会の中で見逃すことのできない光を発しました。
照らす光が変われば物の見え方が変わるように、人々は同じ作品の中に異なる価値や世界観を見出すことになります。本展を通じて、作品に残された思想と価値観の記憶をたどることで、フランス美術の鑑賞がますます豊かな楽しみをもたらすものとなることを願っています。



| 聖性のゆくえーー「ライシテ」と共にたどるフランス美術史
藤原啓(宇都宮美術館 学芸員)
本展のねらいと本稿の役割
ものを見る時、観者はそこに自分が見たいものを見出してしまうことがある。見えているものが異なるならば、ある作品についての見解を問われた際に、観者によってその見解が分かれるのはごく自然なことである。
したがって、ある作品が高く評価されるとき、その要因はただ作品にのみあらわれるわけではない。
作品が創造され、価値を認められ、残されてきたことの意味、あるいは反対に、価値を認められずに残らなかった(あるいは不遇の中で辛うじて残されてきた)ことの意味。それらを考えることなく、ただ現在において評価の高い作品のみを集めてそうでない作品を排除していけば、そこから紡がれる物語は非常に不鮮明で心許ないものとなるだろう。美術作品は、それを生み出して今日まで送り届けてくれた社会との関係性の中で考えることにより、いっそう魅力的な姿を我々に見せてくれるのではないだろうか。
第三共和政初期ーー象徴の新たな置き換え
この世ならぬ世界とのつながりを感じ、超越的な力の存在を感じること、すなわち宗教的なものとは、社会が機能する上で不可欠な要素なのである。絶え間なく変化する政治的な状況に左右されることなく、常に聖性を発し続ける何かが求められた。この、いわば新たな信仰の源泉となるものーーそれが、他ならぬ美術に求められたということ
前衛の時代
芸術家が社会の「前衛(アヴァン=ギャルド)」となる時代が訪れる。彼らが社会的なしがらみから自由になって自らの芸術に没頭することで、新たな聖性が芸術の中に生成される。社会の外にある力との接触の感覚を人々に抱かせ、人類や社会の新たな可能性を感じさせるという芸術的の社会的使命は、芸術家が自由になることで逆説的に実現された。
こうして芸術的たちはある種の宗教的指導者となっていく。前衛はまず芸術的・社会的な規範を逸脱する芸術を創造し、反発や批判などの反応を得ながら理解者と非理解者を生む。やがて芸術それ自体の概念が拡大され、前衛芸術はその中に取り込まれていく。批評家、美術史家、学芸員らは批評や展覧会を通じて前衛芸術家を美術史の中に位置づけ、作品の解釈を変化させるだけでなく、既存の概念や美術史を巧みに再定義しながら、国家の美術史の中に前衛の力を取り入れていった。
| ライシテの観点から読み直すフランス近代絵画
伊達聖伸(東京大学大学院総合文化研究科 教授)
Ⅲ 世俗と宗教の交錯ーーライシテの時代の絵画に滲み出る宗教性
1. 19世紀後半〜世紀末ーー象徴主義とその周辺
持田季未子は、聖なる宗教絵画を描いたジョットの青と、宗教とは無縁であるはずのセザンヌの青とを結びつけ、青という色が人間の原初的な知覚に訴えるものであることに注目している。そのようにして私たちに世界を新たに開示してくれるセザンヌの絵は、物質性や既存の意味構造に還元されることのない精神性の在処を示している。
「暗示的な芸術とは、造形上、人智を越える要素から放射されるもので、それを互いに結びつけ、組み合わせて、何か思想を刺激して高い方へ持っていくものである」ルドン
3. 第一次世界大戦後ーーシュルレアリスムとアール・サクレ
シュルレアリスムが目指したのはむしろ主観を排して客観に至ることであった。ブルトンが「シュルレアリスム宣言」(1924年)で提案しているのは、私たちが囚われている論理の支配を逃れて、フロイトの発見した無意識を手がかりに、知られざる人間の領域を探索することであり、夢をも含めた現実のなかに超現実をとらえることである。これは理性よりも大きくて広く深い人間のあり方を希求するものだが、そもそも理性によって理性を越えるものとして想定されている無意識を利用して理性以上の人間性を回復しようとするアプローチは理性的とも言える。
シュルレアリストはもはや人間の外部を当てにせず、宗教的に自律した世俗的な人間の地平に徹底的に踏みとどまっている。政治的には左で、ブルトン自身トロッキーから大きな影響を受けているが、この唯物論的で実験的な前衛は、理性や合理性には回収できない現実に注意を向けており、そこから客観的でありながら不思議なものや神秘的なものが立ち現われてくる。
シュルレアリスムの方法としてよく知られているのが、意識的な制御や理性的な構成を排して無意識から直接的に言葉やイメージを引き出す「オートマティスム」(自動記述または自動描画)と、ある対象やイメージ通常とは異なる文脈や環境に置くことで異化効果を狙う「デペイズマン」である。文学におけるシュルレアリスムの代表がブルトンなら、絵画ではマックス・エルンストが筆頭である。エルンストが用いた技法のうち、物の表面に紙を当てて鉛筆で擦ることで偶然に生まれる形を利用するフロッタージュは、オートマティスムの視覚的応用と言える。一方、通常は結びつかないはずのイメージをひとつの画面に配置するコラージュは、デペイズマンに対応している。フロッタージュは作者が作るのではなく、作者を通じて何者かが作るのであり、作者は能動性を剥奪されて受動的な媒介者の役割を担う。コラージュも同様で、
画家は物を貼りつける者というより、物同士が結びつく現場に立ち会う目撃者である。もしシュルレアリスムの絵画から不思議なものが立ち上がってくるのなら、それは画家が神に代わる創造者だからというより、むしろ視覚的イメージの錬金術師だからである。
J・J・グランヴィル《映った影》
敗戦の痛みを分かち合う人々を愛国主義が結び付ける一方で、急速な国民国家の形成は社会にひずみをもたらし、共和国の基盤のもろさがあらわになっていきます。世紀末には、近代化の流れに背を向けて、精神の奥深くや異国に自らの表現世界を求める画家も現れました。

ロドルフ・ブレスダン《死の喜劇》
神や神秘的な瞑想から人間を遠ざける「笑い」は反教権主義の政治的主張と相性がよく、共和派はユーモラスな風刺画を大きな武器として活用します。

リュック=オリヴィエ・メルソン《エジプト逃避途上の休息》

脱宗教化は1905年の政教分離法制定により決定的なものとなりました。
信じるという姿勢は、近代人にとっては簡単に受け入れられないかもしれません。
第2章
敗戦からの復興
敗戦の痛みを分かち合う人々を愛国主義が結び付ける一方で、急速な国民国家の形成は社会にある種のひずみをもたらし、共和国の脆弱な基盤が露わになっていく。世紀末には、近代化の流れに背を向けて、精神の内奥や異国に自らの表現世界を求める画家らも現れた。
東方と他者
リュック=オリヴィエ・メルゾン
《エジプト逃避途上の休息》
第3章
「政権分離」と「神聖同盟」の時代
世紀転換期のカリカチュア
笑いは神や神秘的な瞑想から人間を遠ざけるものであり、ユーモラスなカリカチュアは反共権主義の政治的主張と相性がよく、リベラル派はこの芸術表現を大きな武器として活用した。
宗教は確かに秩序の維持に役立っているのかもしれないが、それは支配者層に都合よく機能し、その一方で貧しい者たちをますます苦しめることにつながっているのではないか。
神秘とは神による直接的な啓示であるため我々人間の理解を超越する可能性がある。一方で、理解できないものを信じるという姿勢は、近代人にとって容易には受け入れがたいものであろう。
第4章
もうひとつの聖性
ーーライシテの時代の美術
ライシテ化が推し進められた19世紀末から20世紀初頭、美術は美術そのものとして聖性を孕むものとなっていく。
芸術家の使命がアヴァン=ギャルドとして社会を押し広げていくことにある限り、芸術家に社会的な使命が課せられていることと、芸術そのものとして芸術を培うこととほ矛盾しない。それどころか、芸術の自律性を担保することは芸術の社会的な使命を果たすための必要条件ともなりうる。既存の社会に存在しない価値を見つけ出すには、その社会の規範的な価値観から離れ、自律的な価値観の中で「聖性」を求めることのできる場が必要となるだろう。
第三共和政期のフランス美術界は、その必要条件を一定程度実現していたと言えるだろう。
また、新たな「聖性」を練り上げるための素材や才能も数多く集まってきていた。「未開の地」から持ち込まれる呪術的な造形、急速な発展を遂げる科学技術、芸術の都パリにやって来る外国人芸術家といった、既存の社会に新たに持ち込まれた異質なものたちが、新たな時代の「聖性」を生み出す源泉となっていく。
どこか得体の知れない、時には恐ろしささえ感じさせるような新たな「聖性」を示す芸術の数々を、共和国は巧みに歴史のなかに位置付け、自らのナショナル・アイデンティティに取り込んでいった。人々を導く新しい時代の表現を追い求め、それを広く国家の歴史として共有するこの動きには、18世紀末のあの熱狂一ー宗教的な情熱のもと、普遍的な市民としての新しい人間の創出を目指した革命祭典の熱狂一ーとどこか通ずるものを見出せないだろうか。
聖なる力の感得
やがて、自然との交感は、特定の宗教的文脈を伴わずともそれ自体の力で聖性を伝える美術を生み出していく。自然と対峙する姿勢はもはや科学的な観察に基づくものばかりではなく、自然の持つ根源的な力との調和的なつながりを求めるものへと展開していった。世界を観察し、そこにこの世ならぬ力の存在を感じ取り、それを目に見える形にして提示することが芸術の役割となっていく。
シュルレアリスムーー潜在意識の発露、あるいは聖性の転用
道徳や理性による判断を取り払い、潜在意識の発露を試みるこの運動は、理性的な創作では到達できない異質な力の存在を可視化することになる。
こうして創造される前衛芸術は、超越的な力が芸術家という媒介を通して描かせているようにも、超人的な芸術家のカリスマ性によって生み出されているようにも感じられるだろう。
芸術は生むべきものではなく生まれてくるものであり、芸術家は芸術の生成に観客として立ち会い、芸術の生成過程を追っていく者であるとされた。
既存のもの、既知のものを置き換えることで未知の世界に達しようとするコラージュは、まさにこの受動的な創造体験のための技法であると言ってよいだろう。ただし、これは作家個人の感受性や執着を排除するものではなく、むしろそれをより鮮明にすると言える。
| 共同体の展示室か、共和国の展示室かーー芸術家の「戦い」の場としての私的領域と公的領域
松井裕美(東京大学大学院総合文化研究科 准教授)
世俗化した世界で、芸術家たちが宗教の代わりに信じたものとは何だったのだろうか。
やがて前衛文化を担う芸術家たちは、既存の社会にはまだ存在しない価値を創造する者としての自覚を深めていく。そのとき彼らにとって必要とされたのは、孤独な創作の営みを支え、宗教組織や政治団体の代わりに精神的紐帯となる、新たな共同体だった。哲学者ジャン=マリー・ギュイヨーは、1887年の著作「未来の非宗教」において、そうした共同体が「多様な信仰の儀礼であり続けるだろう」としている。そこでは芸術が、宗数や伝統から解き放たれ、代わりに「科学、形而上学、道徳がそれぞれ詩情へと到達し、そしてまさにそのことによって、宗教感情に似た何ものかへと至る」。
実際、19世紀も末を迎えるまえから、フランスではすでに、アカデミー体制や国家主導の芸術制作から独立した私的なセクターが発達していた。そこでは、芸術家たちと、彼らを取り巻く画商・批評家といった人々から構成される、小規模ながらも濃密な共同体が次々と誕生した。画家エドゥアール・マネは1867年のバリ万国博覧会の会場外に自ら展示空間を設け、個展を開催した。そのカタログ序文には、「展示すること、それは戦いのために友と味方を見つけることである」と記されている。マネ自身の主戦場は結局のところサロンであり続けたにせよ、個展やグループ展は、芸術家たちにとって体制外での「戦い」の場を提供するものとなった。1874年には、のちに「第1回印象派展」と呼ばれることになるグルーブ展が写真家ナダールの旧アトリエで開催される。互いの利益を守るために結成された複数の小さな共同体は、理論と実践を共有し、切磋琢磨する場として機能していた。画商やコレクターの支援を得て作品が展示されると、その空間は新たな芸術運動のマニフェストの場ともなった。こうして、制度の外縁でゲリラ的に展開された戦いの場は、新たな芸術のあり方を模索する共同体の縁 よすが となった。
公式のサロンや万国博覧会とは異なる、いわばオルタナティヴな展示の場は、小規模な私的共同体によってのみ実現したわけではない。第三共和政への移行を経て、1880年には国家主体によるサロンの廃止が決定されると、それに代わるかたちで、複数の民間主導のサロンが誕生した。
「オルタナティヴなサロン」の発展は一足とびに実現したわけではなく、その歩みは段階を経て進められた。1881年に設立されたフランス芸術家協会は、運営こそ芸術家たちに委ねられていたものの、国家からの支援を受けており、依然として「公式のサロン」としての地位を保持していた。この協会において信仰の対象となったのは、芸術そのものにとどまらず、共和国の理念、ひいては芸術の庇護者たるべき国家フランスであった。国家と芸術とが一体となり、国民を導くという理念は、1883年に同協会のサロンにおいて入賞したジュール・ダルーの《友愛》(当時は《共和国》の題で出品)に体現されている。そこには、下部に互いの友愛を確かめ合う市民たちが描かれ、上部には共和国の理念を象徴する女性たちが配されている。向かって右側の女性は、「自由」を象徴するフリジア帽を被り、左手に名誉と芸術を象徴する月桂樹の冠、右手に知を象徴する羽ペンを撮っていることから、「自由」の擬人像であるばかりか、芸術や学間の庇護者(つまり表現の自由を保障する者)でもあることがわかる。「正義の手」と呼ばれる笏を手にした最上部の女性は、中世以来フランスにおいて主権の象徴とされてきたものであり、本来は司法権を担う者に託される。たがここでは、王の身体ではなく、共和国という抽象理念の持物として描かれている。芸術の理念とともに聖別された共和国の理念、そしてそれを支える世俗の市民たち一ーこの二世界を結ぶのが、市民が揚げ、擬人像が抱きしめる三色旗である。それは、理念と現実、国家と市民、そして芸術と公衆とをつなぐ象徴的な架け橋となっている。
ただし、国家主義と、それに密接に結びついていた家父長制的価値観に根さす「友愛」は、決して万人に開かれた理念ではなかった。フランス芸術家協会における外国人排除や女性芸術家への差別的傾向は、当時の人々にとっても看過しがたい問題を孕んでいた。十分な展示機会を得られなかった女性たちは、フランス芸術家協会の設立と同じ1881年に女性画家・彫刻家連合を結成し、独自のサロンを立ち上げる。また、より自由で国際的な展示の場を求めて、1884年には審査も賞も設けない独立派芸術家のサロンが創設される。そこは、既存の価値観に挑む芸術家たちが集い、伝統から解き放たれた芸術表現が追求される場として機能した。先に取り上げたダルーもまた、1890年以降は、フランス芸術家協会の保守的な運営方針に疑問を感じる者たちが設立した国民美術協会の中核メンバーになる。
画家アンリ・ルソーは、1906年の独立派芸術家協会のサロンに《第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神》を出品した。この作品に描かれた自由の擬人像は、蜂起するパリ市民のなかに身を投じ、地に足をつけ三色旗を掲げるドラクロワの《民衆を導く「自由」》とは対照的に、はるか上空を舞う、極めて理想化された存在として表現されている。また、ダルーの《友愛》においては、擬人像たちが三色旗を介して地上の市民の抱擁の輪に参与していたのに対し、ルソーの描く擬人像は、左手人差し指で大地を指し示すのみで、その眼差しは遠い彼方を見据えている。まるで、独立派芸術家協会が共有していた「芸術」への純粋な信仰を象徴するかのようである。ただし、その純粋さを支える理念の根底には、やはり共和国の精神がある。そのことを象徴的に示す存在がライオンである。天上から響く天女のラッパに導かれ、男女の芸術家たちが列をなして進む先に鎮座するこのライオンの足元には、シニャックやスーラら新時代を代表する画家たちの名に加え、ルソー自身の名が記された通達状が置かれており、「あなた方の模範」として提示されている。ライオンは普通選挙の象徴である。1883年にレオポル・モリスが制作し、レビュブリック広場に設置された《共和国記念碑》では、ライオン像の立て髪の後ろに「普通選挙」と刻まれた選挙箱のブロンズ像が添えられた。ルソーの絵においても、芸術家たちはまるで一人一票を携えて選挙に向かう市民のように、それぞれ一人一枚のタブローを抱えてライオンのもとに集っている。この作品は、国家を含むあらゆる権威や派閥から独立した芸術理念を高らかに称揚しつつ、他方では独立派芸術家協会を共和国の精神に結びつけるという、両義的な性質を帯びているのである。
ルソーの作品が象徴的に描き出した国家と芸術との関係一ー国家から独立した芸術の自由を国家の理念が保障するという関係一ーは、1937年のパリ万博にあわせてブティ・バレで開催された展覧会[独立派美術の巨匠 1895-1937年」における公式見解となった。本展は、ボスト印象派からキュビスムに至るまでの流れをたどるものであり、フランス人作家のみならず、バリを拠点に活動した外国人作家の作品も広く紹介された。このことは、パリで華ひらいた美術の国際性と多様性を称揚するだけでなく、パリの文化的土壌を生み出した共和国の、自由の理念を讃える機会ともなったのである。
仮にそこに、寛容さの名のもとに包み込まれた愛国主義の変奏を読み取ることができるとすれば、同年にジュ・ド・ボームで開催された展覧会「国際独立派芸術の起源と発展」は、それとは対照的に、真に国際的な視野から独立芸術の歴史を捉えようとする試みであった。そこでは、フランスで展開した前衛芸術に加え、スイスを起点とするダダやロシア構築主義、オランダのデ・ステイル運動、さらにはカンディンスキーやクレーといったドイツの前衛画家たちが紹介された。また、近代芸術に多大な影響を与えたアフリカおよびオセアニアの造形物も展示され、独立派芸術の起源と展開を、地理的・文化的に広範な視野から捉え直す構成がなされた。国家主義や党派主義を嫌忌するシュルレアリスム界隈の画家・詩人・画商たちが、本展の運営に中核メンバーとして関与したことは、この展覧会の国際的かつ反体制主義的な性格をいっそう際立たせた。
1937年に開催された二つの独立派展のあいたに見られる分水嶺は、芸術をめぐる両大戦問期の議論を特徴づける重要な争点の一つでもあった。一方には、芸術の自律性を擁護する立場があった。彼らは、国家や制度からの独立を重んじ、小規模な前衛的共同体を基盤に、それぞれが、信じる芸術のかたちを模索した。他方には、芸術が公共の利益に資するべきであると信じる作り手たちがいた。彼らは、公共空間を飾るにふさわしい作品を、公的機関の庇護のもとで制作・展示することを望んだ。この二つの潮流はたびたび交差した。第一次世界大戦下において、前衛芸術を支える徹底した個人主義への批判の声が強くなると、前衛文化の担い手たちの一部は、自らの芸術実験が社会の利益と相反しないことを示すべく、ポスターや家具のデザイン、壁画や記念碑といった、芸術の民主化に貢献するジャンルに積極的に取り組むようになった。1937年のバリ万博の会場では、ラウル・デュフィをはじめ、ドローネー夫妻やレジェといった前衛的な画家たちが、壁画制作に携わった。これまで「オルタナティヴなサロン」には出品せず、謎めいた実験を推し進めていたピカソも、このときついに政治的なスタンスを公的な展示場で明らかにする。彼はスペイン内戦に起因する窮状を訴えた大作《ゲルニカ》をスペイン館に展示するのみならず、《フランコの嘘と夢》を制作し、その販売費用をスペイン共和国側(反フランコ勢力)の支援に充てようとした。
世俗化が進む時代にあって、共和国の発展と危機の双方を目の当たりにした芸術家たちは、いったい何を信じ、どのような場で誰とともに戦いを繰り広げたのか一ー冒頭で掲げたこの問いに対する答えを、それぞれの芸術実践のうちに読み解くことで、国家と芸術、その双方に内在する理念的側面と現実的側面とのあいだの緊張関係が、より具体的かつ立体的に見えてくるに違いない。
第5章
「アヴァン=ギャルド」の向かう先ーー美術と国家、美術と宗教
| 非宗教化された「聖なるもの」と戦争のかげーー芸術が紡ぐ神話のかたち
松井裕美(東京大学大学院総合文化研究科 准教授)
近代以降、世俗化が進むなかで、芸術が宗教的権威から自律し、固有の価値を獲得していくという過程は、広く知られたシナリオである。しかしながら、20世紀に入っても教会芸術は依然として存続し続けた。また、制度としての宗教とは一線を画しながらも、「聖なるもの」を探究する芸術実践も少なからず存在する。ここでは、宗教的制度の枠外において生まれた芸術における「聖なるもの」に焦点を置き、20世紀前半の芸術動向を概観してみよう。
20世紀前半の芸術家や詩人にとって、非宗教的領域における「聖なるもの」は、産業社会とアカデミズムという二つのメインストリームからの重要な避難場所のひとつであった。制度化された宗教から逸脱するオカルト主義やスピリチュアリズムは、カンディンスキーやクブカ、モンドリアンら抽象芸術の先駆的存在にとって、目に見えない神秘的世界へと想像力を解き放つための媒体となった。一方では軸足を芸術に置きながら、他方ではそこに神秘主義と科学的知識、観念論を交差させることで、幾何学や比率、色彩理論に神聖な意味が見出された。この系譜は戦後にも受け継がれた。「超越的」な鑑賞体験を与える戦後アメリカの抽象表現主義や、イヴ・クラインの神秘主義思想への傾倒もまた、こうした射程の延長線上に捉えられてきた。
第一次世界大戦という未曾有の破壊を経験した芸術家や詩人のなかには、この「近代戦争」のうちに、近代的な進歩が幸福をもたらすという神話の終焉を直感し、外的世界ではなく、自らの内奥に潜む無意識の欲望や恐怖に耳を澄ませようとする者たちが現れた。1924年のシュルレアリスム宣言のもとパリに集った若者たちは、まさにそのような志向を体現していた。彼らにとって「聖なるもの」とは、外部にある絶対的存在ではなく、むしろ自己の深層に潜む、名づけ得ぬ何かとの関係において立ち現れ、
経験されるものであった。ジュール・モヌロは、シュルレアリストたちがいかに無意識を「聖なるもの」のひそかな受け皿にしていたかを論じ、「聖なるものを内部に抱かざるを得ない人々は、宗教や典礼が保存し表し意味するすべてのものに背を向け、それに参加することを拒否する」と述べている。それは、制度に背を向け、「瀆聖と冒瀆を通じて初めて何か聖なるものの影を掴み、抱き取ろうと試みる」ような、いわば「無神論的神秘主義」とも呼ぶべき姿勢であった。そこには、ミシェル・レリスが日常生活の品々のうちに見出した「聖性」のように、個人のうちにひそかに生み落とされ、あらゆる制度や秩序から逸脱しながら育まれる、私的な神話と響き合うものが見出せる。彼らにとって芸術とは、単なる表現手段ではなく、日常生活そのものを変容させる場であった。神話の破壊と構築を通じて、彼らは芸術を生の根源に接続する試みとして位置づけたのである。
クチュリエ神父をはじめとする「聖なる芸術」復興運動において、現代芸術が重な役割を果たしたのも、それが旧式の教条主義に与することのない、自由と個人主義に裏打ちされたものであったからにほかならない。ナビ派の画家モーリス・ドニによる「聖なる芸術」運動の潮流を継承しながらも、より急進的な方向へと展開させたのが、かつて彼の弟子であったクチュリエ神父である。彼の革新性は、時代遅れの教会芸術を批判し、存命の芸術家による新たな教会装飾の可能性を模索した点、さらには非カトリック信徒による教会装飾をも積極的に受け入れた点にある。1950年の文章において、クチュリエ神父はフランスにおけるキリスト教美術の再生に向けた「聖なる芸術」運動の使命を、「諸観念の改革」と「視覚的感性の回復」の2本柱に定めた。とりわけ彼は、アカデミズムによって形骸化した「視覚的感性」を教済するためには、「純化」と「自由」が不可欠であると説く。彼が重視したのは、「形式的な純粋さ」、すなわち主題や意図とは無関係に、諸形式そのものが帯びる自律的な美の価値であった。このような理念に照らせば、表現の自由と純粋さを追求する現代美術家たちに教会装飾を委ねることは、むしろ当然の選択であった。。
モーリス・ノヴァリナにより設計されたアッシー・ノートル=ダム=ドートウットニグラース教会は、その理念が結実した例のひとつである。この数会は、1950年に献堂される頃には、カトリック信者であるジョルジュ・ルオーだけでなく、ユダヤ教徒のシャガールや、フェルナン・レジェ、ジョルジュ・ブラック、ジャック・リプシッツといった、かつて難解なキュビスム様式の実験に専心していた前術芸術家たちの作品で飾られることとなった。アッシーの装飾、とりわけ無神論者の彫刻家できるジェル
メーヌ・リシエによる《磔刑像》は、聖職者たちから多くの批判を受け、いわゆる「聖なる芸術論争」の火種となったのだが、他方でクチュリエ神父の革新的な実践は、その後の前衛芸術家による教会装飾の先鞭をつけることになった。こうしてクチュリエ神父は、制度としての宗教と芸術の関係の再構築に寄与することになる。現代芸術の根底にある自由の精神を尊重しながら、それを教会美術に接続させる新たな道を、戦後に切り拓いたのである。
第二次世界大戦を経験した芸術家たちの側にも、共同体との新たな精神的紐帯を求める、深い心境の変化が生じていたことは見逃せない。戦火を逃れて亡命を余儀なくされた多くの芸術家たちは、避難先で小さな共同体を築き、各人の神話世界を共有する実践を局所的に展開した。戦時下の南仏では、シュルレアリストたちが独自のカード遊びを創案し、ジャン・アルブやゾフィー・トイバー=アルブらは共同制作を通じて新たな集合的表現の場を模索した。大戦中はナチスに占領されたパリに留まり続けたピカソが、戦後まもなく南仏の街ヴァローリスに居を構え、陶器制作や陶器市のポスター制作を始めたのも、現地の職人たちの共同体のうちに、自らの居場所を見出したからにほかならない。彼が描いたのは地中海の日常を生き生きと物語る風景や事物、そして神話世界の生物たちだった。やがてピカンは、そうした平穏な日常がいかに〈儚いもの〉であるのかを刻みつけるかのように、ヴァローリスの古い礼拝堂に壁画《戦争と平和》を描くことになる。
このように、新たに結成した共同体のなかで独自の神話を分かち合いながら、制度的秩序に回収されることのない自由と個人主義を保ち続けることは、二つの世界大戦を経験した20世紀前半の芸術家たちにとって、既存の共同体が次々に解体していく激動の時代を生き抜くための、ひとつの手段であった。
もちろん、なかにはヒルマ・アフ・クリントのように、軸足を芸術の側ではなく信仰の側に置き、絵画を通じて秩序だった観想世界の構築を目指した者もいた。ただし、芸術を信仰に奉仕するものとして捉える立場を、20世紀の前衛美術の歴史のなかにどのように位置づけるべきかという問いは、今なお解決されていない課題である。20世紀芸術における「聖なるもの」をめぐる歴史の複雑性を語り直すために、私たちに求められているのは、モダニスムの枠組みを超えて、共同体の多様性と複数性に目を向けることにほかならないだろう。
| シャルリ・エブド事件とライシテ
伊達聖伸(東京大学大学院総合文化研究科 教授)
『シャルリ・エブド』は、問題の風刺画は原理主義的傾向を批判するものであって、ムスリム一般を対象とするものではないと主張し、表現の自由を強調した。裁判所はこの主張を認め、名誉毀損には当たらないとの判決を下した。
「私はシャルリ」は「私はライシテ」の意味でもあることを理解しなければならない
これは、ライシテと表現の自由の結びつきを強調するものである。ライシテは、(1)良心の自由と礼拝を実践する自由、(2)精神的な価値観の平等、(3)政治と宗教の分離、(4) 国家の宗教的中立性の4つを基本的な構成要素としているというのがひとつの定説だが、表現の自由をライシテの新たな構成要素として考えるべきかどうかは、現在のライシテ研究のひとつの論点にもなっている。
論争的ななカリカチュアを不特定多数が目にする公共の場で用いるのは妥当ではなく、見たい者が自分の意志で見られる媒体に使用範囲を限定すべきと提言している。
第三共和政時代の反教権主義的なカリカチュアは体制批判の意味合いがあったが、現在のカリカチュアはフランスのアイデンティティとしてのラインテと結びつき、社会のマイノリティ宗教であるイスラームに批判を加える傾向が認められる。ただし、第三共和政期にも社会のマイノリティであるユダヤ教を批判するカリカチュアは多く描かれていたし、「シャルリ・エブド」が特にイスラームを標的にした風刺画の数において突出していたとは言えないことも、合わせて指摘しておくべきだろう。
2005年のムハンマドの風刺画事件を受けて行なわれたシンポジウムをもとにした英文論集『批判は世俗的か』が、2015年にフランス語に訳されている。そのなかでサバ・マフムードーーエジプトにおける女性のイスラーム的な敬虔な実践が近代と両立することに着目して、西洋中心的な世俗とフェミニスムの枠組みに再考を促した人類学者である一ーは、世俗的な西洋では「宗教的な痛み」が理解されにくいと指摘している。
ライシテの精神は批判精神であるとよく言われる。歴史的には、権威主義や絶対主義はしばしば宗教によって体現されてきた。宗教批判や冒瀆を認める表現の自由がライシテの不可欠な構成要素で宗教によって体現されてきた。宗教批判や冒瀆を認あるかどうかはさておき、それがフランスにおけるライシテの歴史のなかで大きな役割を果たしてきたことは事実である。そして近年、表現の自由とライシテの結びつきが強まっている様子が窺える。しかし、それによってライシテがともすると硬直した権威主義や絶対主義に陥っているのなら、そして他者の「宗教的な痛み」を理解できていないのなら、その状態をも批判できてこそ、ライシテが持つ批判精神の名に適うと言うべきではないだろうか。