第12章 インターネット上のアート
明らかに多くの文化に携わる人々が、このインターネットへの移行を自由化として経験している。なぜならばインターネットは選択的でないからである。
たしかに、過去の時代の芸術家と作家を悩ませていた疑問は「選択の基準は何か」というものだった。なぜある芸術作品が美術館に入り、その一方でほかの芸術作品は入らないのか。
作品は優れており、美しく、感性を触発し、オリジナルで、創造的で、力強く、表現豊かで、歴史的に重要でなければならない等、同様の基準を何百も挙げることができる。しかしこれらの理論は崩壊した。なぜならば、なぜあらゆる芸術作品が残りのものよりも美しくオリジナルであることを、誰も説得的に説明できないからだ。
美術館の訪問者は、芸術鑑賞に精神的に没頭するためには美術館を忘れなければならない。いいかえれば、フィクションがフィクションとして機能するための前提とは、このフィクションを可能にする物質的、技術的、制度的な枠組みを隠すことなのだ。
ハイデッガーは、芸術のみが隠された枠組みを明らかにすることができ、われわれの世界についてのイメージの、フィクション的でイリュージョン的な性質を示すことができると信じた。
アヴァンギャルドは決してリアルなものの探求に完全に成功したわけではなかった。なぜならば芸術の現実性、アヴァンギャルドが明らかにしようとした芸術の物質的な側面は、芸術表象の標準的な条件のもとに置かれることで、再フィクション化されたからである。
インターネットは、オフラインの現実の中に参照点を持つという、ノンフィクション的な性質の前提のもとで機能する。インターネットは情報の媒体であるが、情報は常に何かについての情報である。そしてこの何かは常にインターネットの外部、つまりオフラインに位置している。
最も重要なことは、インターネット上では芸術と文学は、アナログに支配された世界で働いていた、固定された制度的枠組みを持たないことである。
芸術はインターネット上では制作過程として、もしくはオフラインの世界の現実で生じる生の過程という特別な種類の現実として提示される。これはインターネット上でのデータの提示に関して美学的基準が何の役割も果たさないということを意味するわけではない。しかしながらこの場合には、われわれは芸術ではなくデータのデザインを扱っている。つまり現実のアート・イベントについてのドキュメンテーションの美学的な提示を扱っているのであり、フィクションの生産を扱っているのではない。
ここ数十年アート・ドキュメンテーションが伝統的な芸術作品と並んで美術展や美術館に急速に含まれるようになった。しかしこの近似性は常に極めて問題であるように思われる。
芸術作品はまたフィクションである。それらは証拠として法廷で使用されることはあり得ない。
アート・ドキュメンテーションはアートを示すが、アートではない。
そして芸術作品の形式は制度によって保証されている。なぜならば、形式のみが、これは芸術作品であるというフィクションのアイデンティティと複数可能性を保証するからである。対照的に、ドキュメンテーションは思うままに変えられる。なぜならばドキュメンテーションのアイデンティティと複数可能性は、それ自身の形式ではなく、その「現実」の形式、外部の指示対象によって保証されているからである。
インターネットを導入することによってのみアート・ドキュメンテーションにその正当な場が与えられたのである。
インターネットは、作者が自分のアートを世界中のほとんど誰にでもアクセス可能にし、同時に個人のアートのアーカイヴを作ることを可能にする。
この作者としての主体はすでに脱構築され何度も死を宣告された。
これらの活動はすべて同じ統合された空間の中で起こり、それら全ては他のインターネット・ユーザーにとっても潜在的にアクセス可能である。
今日では主体は技術的な構築物となった。
『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳
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