記憶と不在
ある雪の結晶がとる特定の形態は、雪が地面に落ちるにあたって、環境と相互作用した結果であり、歴史的に偶然な産物である(雪の結果が何らかの個性を示すと考えられているのはこのためである。二つとして同じものはない)が、その形態は決して選択的に記憶されることはない。
生きものが雪の結晶とは異なるのは、生命は本来、記号論的であり、常に記号過程は自己を表すからである。個々のアリクイがとる形態は、その形態の未来における例化へと向かい、その系統が進化の時間にわたって適応してきた環境を表象することになる。
すなわち、自己とは、個々の形態を維持し、永続させる、生命に固有な過程の産物であり、その形態は、数世代にわたって反復されるにしたがって、周りの世界に適合するようになり、同時に、それではないものとの関連において築かれた自己同一性を維持する、ある環状の閉包性を表すようになる。
自身の形態を維持しようと努める限り、自己は自らのために活動する。それゆえ、「皮膚によって境界づけられた」ものであろうが、またはより分散したものであろうが、自己は行為主体性と呼ばれるであろうものの座なのである。
記号過程が関連するのは、不在の何かである。
ひとつの生ある記号は、パースが習慣と呼ぶものの述部である。別の言い方をすれば規則性、まだ現存していないがいずれは存在するようになるであろうものに対する期待である。
生命と思考
記号の系統は、個々の例化を未来のものによって解釈可能にするようにして先行するものを解釈する限りにおいて、創発する習慣として未来へと広がることが潜在的には可能である。
つまり、あらゆるたぐいの生命は、人間的であれ、生物学的であれ、あるいは、いつの日にか現れるかもしれない無機的な生命でさえも、身体化され、局在化され、そして、表象的である、未来を=予測する動態をおのずから示すだろう。
雪の結晶とは対照的に、諸自己は経験に基づいて習得できるが、記号過程を通して諸自己は成長できるという、ここまで描写してきたことがその事実を別様に表現している。そして同じく、諸自己が考えるということは、その事実を言いかえている。こうした思考は、私たちが狂信的にリアルタイムと呼ぶような時間尺度のうちに必ずしも生じるわけではない。つまり、それは皮膚によって境界づけられた有機体一体の生命の内部で必ずしも生じるわけではない。生物学的系統もまた、考える。これらも、数世紀にわたり、自らを取り巻く世界について経験から習得することで成長できる。
本書で展開する、人間的なるものを超えた人類学の核となるのは、このように深められた、生命、自己、思考のあいだにある近しい関係の理解である。
諸自己の生態学
全ての生命は記号論的であるのだけれども、その記号論的な特性は、類を見ないほど多種多様な自己がひしめく熱帯雨林において増幅し、より明確になる。森が考える方法に注意を向ける方法を私が見出そうとするのはこのためである。
あるたぐいの存在がそれとは異なるたぐいの存在を表象し、また表象されるありようが、アヴィラ周辺の森における生の図柄(パターニング)を規定する。
コウモリはいかに世界を見るのかということが、飛行するアリの生命を左右する。
記号論的な濃密さ
この密な諸自己の生態学における非常に多くの記号論的な生命形態の相互関係は、生命が地球上のほかの場所において表象する仕方と比べると、相対的により微細で徹底的で隅々まで行き届いた仕方で周りの環境を表象している。つまり、熱帯林で生まれる「思考」は、世界を相対的により詳細に表象するようになる。
つまり、熱帯の植物は、土壌環境の違いを増幅し、それゆえに植物にとってその違いを重要なものとする草食動物との相互作用のために、その土壌環境に関連するものを表象するようになる、と言えよう。
熱帯の植物は、温帯のものと対照的に、その環境特性に対する、相対的により微細な表彰を形づくるようになる。熱帯の植物は相対的により密な生ある思考の編み目にとらえられているために、土壌のタイプのあいだにさらなる差異化をもたらすのである。
生態学的に関係のあるあらゆる生命のたぐいがとる多様な形態は、土壌の特徴に還元できるものではない。私は、環境決定論を支持する議論をしているわけではない。それでもなお、こうした複数種からなる集合体は、この諸自己の生態学のうちに存在する諸々のたぐいの自己のあいだの(ほかの生態学と比べて)より多数の関係のまさに関数として、土壌の条件の差異に関する何かをとらえ、増幅するのである。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳